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時は流れる

 

Wein

●ウィーン・ミュージアム所蔵
 クリムト、シーレ ウィーン世紀末展
 
【北海道】2009年07月11日〜09月06日 札幌芸術の森美術館
【東 京】2009年09月16日〜10月12日 日本橋高島屋
【大 阪】2009年10月24日〜12月23日 サントリーミュージアム[天保山]
【福 岡】2010年01月02日〜02月28日 北九州市立美術館

<図録>
監修:千足伸行
編集:読売新聞東京本社文化事業部

 来年(2010年)12月に閉館が決まっているサントリーミュージアム[天保山]へ、『ウィーン世紀末展』を観に行ってきました。天気は良かったのだけれど、風が非常に強くて寒い。上の表紙がめくれている図録写真は、そんな強風の天保山山頂(山頂と言っても標高4.53mですけどね)付近で撮ったものです。

 
 クリムトやシーレの名前で釣ってはいるものの両作家の出品点数はそれほど多くはなく、ぜんたいとしては1880年代から1920年代くらいのウィーン美術界の状況を概観するもの。その流れのなかでは、やはり上記二人の名前はひときわ大きく、彼らを特集したふたつの部屋は確かに他とは違う雰囲気を漂わせていました。
 会場に入って最初のコーナーは、19世紀後半のウィーン美術界の紹介。いわゆる泰西名画と言うのかな、端正で上品という形容がぴったりの落ち着いた絵画が並びます。フランスのバルビゾン派などから影響を受けたと思われる木々や草花を丹念に描写した作品に混じって、ヨーゼフ・ランナーやヨハン・シュトラウスⅡ世の演奏するヴァイオリンに乗ってワルツを踊る貴婦人たちを描いた絵もあって、文化的に爛熟というかひとつのピークを迎えているんだな、というのが伝わってきます。
 
 どんなことでもおそらく同じなのでしょうけど、なにか「新しいこと」「革命的なこと」はそういうピークを迎えたあとの、閉塞感を打ち破るというかたちであらわれるもので、クリムトの登場もそういう時代の流れのなかだからこそ、なのでしょう。保守派に反発した仲間たちと語らって彼がウィーン分離派(ゼセッション)の初代会長に就いたのは1897年、クリムト35歳のときでした。…話は脱線しますが、革命とか革新ってのは20代から、せいぜい30代の人たちの仕事だよなあとつくづく思います。わたしがここしばらく関心を持ち続けている20世紀初頭のヨーロッパ前衛芸術方面でも、1909年の「未来派宣言」はマリネッティ32歳のときだし、フーゴ・バルが1916年に「キャバレー・ヴォルテール」を開いたのも30歳のころ。ルーマニアからやってきて、すぐにダダの主導権をバルから奪ったトリスタン・ツァラは彼より10歳も若い。一方、「バレエ・リュス」を率いたディアギレフはパリ・デビューした1909年の時点で37歳とやや高めだけど(それでも30代だ)、振付家のミハイル・フォーキンは29歳、一躍スターになったカルサーヴィナは24歳、ニジンスキーに至っては若干20歳。「ロシア・アヴァンギャルド」方面でも後世に名を残している面々はおおむね若く、ロシア革命が成った1917年時点でメイエルホリドが40代であるのを除けば、マレーヴィチにせよタトリンにせよみな30代。日本でも明治維新を成し遂げたのは20代から30代はじめの若者でしたが、「維新」だの「革命」だのという言葉は、本来そういう年代のひとたちにしか似合わない言葉なんであって、どこかの国の政治家みたく60すぎたおっさんがほいほいと口にすべき用語などではな…げふんげふん。
 
 閑話休題。クリムトは1905年、43歳の時にウィーン分離派から脱退しますが、そもそもウィーンの分離派は設立当初から、保守対革新といったようなよくある「対立構図」をはらんでいたものではないと図録では解説しています。それでもクリムトはその過剰な官能性がしばしばやり玉に挙げられていましたが、そんなクリムトよりもさらに過激で挑発的な作品を描いたのがエゴン・シーレ。今回の展覧会ではさほど過激な作品は見あたりませんでしたが、それでもひときわ異彩を放っています。会場でシーレをしばらく眺めていてふと気になったんですが(それにしてもこのひとの素描はとんでもなくイイなぁ)、シーレの描く肖像画、みながみなというわけではないんですけど、しっかとこちらを見ているものがけっこうあるんですね。それで気になって、入り口まで戻って他の作家の肖像画をもういちど見直してみたんですが、あきらかにナナメを向いている構図が多いこと、正面を向いていても目線はこちらの頭上を越えてもっと遠くを見ている風で、これはたまたまこの展覧会場に集められた絵画だけの特徴なのかどうなのかは知りませんが、そんななかでシーレの絵だけがまっすぐこちらに目線を向けているのはちょっと面白いと思いました。彼の絵は描線も人物の造形もじゅうぶん独得で個性的なんですが、それだけじゃなく、肖像画における「眼力」の強さというのも観る者に強烈な印象を植えつけているのかも(と書いてから思い出しましたが、そういやゴヤの肖像画なんかもまっすぐこっちを向いてますね)。
 
 展覧会タイトルにもなっている「ウィーン世紀末」ですが、先に書いたウィーン分離派の設立がかろうじて1897年、つまりウィーンにおける新しい芸術運動は、実質的には20世紀に入って以降目立つことになります。シーレが参加した「新芸術グループ」が最初の展覧会を行ったのは1909年12月、おお、ちょうど100年前だ。何度も当ブログで書いてますが1909年は未来派宣言とセゾン・リュス誕生の年でもあり、ヨーロッパのあちこちで、ホントにさまざまな「革新」が起こっていた年だったんですねえ。シーレは1918年に若くして亡くなりますが、せめてあと10年生きていれば、あるいは近代芸術史が大きく書き換えられていたかもしれません。
 
 分離派やウィーン工房、クリムトやシーレやオスカー・ココシュカなど、モダンで強烈な作品を描いた作家ばかりが印象に残りがちですが、会場には同時代のもっと保守的でおだやかな作風の絵画も、同じくらい展示されています。それら双方の作品を見比べているうち、共になんともいえない“湿度”のようなものを多く含んでいるように感じてきました。けしてカラッとはしていない、これはウィーンの街そのものがもつ湿度なんでしょうか。時代の流れとか表現技法の古さ新しさとは無関係に、そんな沈鬱な<都市の体質>とでもいうべき香りが、会場ぜんたいを強く支配していたように思います。
 
【おまけ】
 会場を出て、上掲の図録写真を撮りに天保山公園へ向かったときの一枚。あ、高波から逃げるピクトさん発見っ、と思ってカメラを向けたんですが、良く見るとむしろ壁面の方が面白かったので、ぐっと引いて撮りました。

Kabe

 「時は流れる」いや確かにそうなんですが、なんでこんなところに。
 


2009 11 16 [design conscious] | permalink このエントリーをはてなブックマークに追加

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