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佐川先生のこと

 

Sagawa

 
 この秋いちばんの冷え込みを記録し、各地で初雪が観測された2009年11月3日。東京へ向かう新幹線の車中からは、真っ白な富士山が青空にひときわ輝いていた。
 
 去る10月30日、佐川美代太郎先生が亡くなられた。享年85。老衰、と新聞の訃報欄には記してある。
 大正12年茨城県生まれ。中央大学を卒業後、東洋大学大学院で中国哲学。太平洋戦争では陸軍少尉であったらしい。読売新聞のアンデパンダン展で最優秀賞を穫り、漫画家を志したのは30歳になってから。50歳のとき京都精華大学教授となり、日本初の「大学で漫画を教える」ことに取り組まれた。さらに佛教大学で仏教学、国文学を修められ、のちに同大の雑誌『鷹陵』などに仏教を自在に解釈したたいへん色鮮やかな作品をたくさん遺された。
 葬儀会場には、その原画がいくつか飾られていた。

 葬儀の場は池袋・雑司ヶ谷霊園の一角にある南池袋斎場。わたしは前日ネットで場所を調べて、JR山手線大塚駅から都電荒川線に乗るのがもっとも近いと知り、その通りに電車に乗った。大塚駅で出発間際の都電に飛び乗ったのはいいが逆方向だったのを2〜3駅たってから気づき、あわてて降りて引き返した。方向音痴なわたしがよくやるミスである。
 そのぶん、少しばかり余計に都電に乗っていたのだが、落ち着いてみると、路面電車の雰囲気、通り過ぎる街の雰囲気が京都精華大学に向かう京福電車にとてもよく似ていることに気づいた。先生のご自宅も雑司ヶ谷である。先生は教授時代に京福にも何度も乗られたことと思うが、先生にしてみれば学校への電車が荒川線に似ていることを、ひょっとすると喜んでおられたのではないだろうか。斎場へ向かう車中、ふとそんなことを思った。
 
 先生が京都に来られたころは、今とは違って「大学でマンガ」なんて冗談もいいところ、文字通りとんでもない話だった時代である。先生は、同僚のヨシトミヤスオ先生とともに当時の文部省に通い詰め、役人相手に苦労して説得に当たられたと、これは当の先生の口から、学生時代に何度も聞かされたものだった。
 
 「精華のマンガ学部」といえば、いまではそれなりに有名にもなってきていると思うが、わたしが入学した当時はまだデザイン学科のなかのいちコースであって、組織上は独立した学科でも学部でもなかった。当時はついに文部省が認めてくれなかったのである。もっとも、学生としてはそんなことはまったく気に留めてもいなかった。しかし先生方にとって「学部」は悲願だったはずである。
 当時はマンガ=低俗、という世間のイメージは根強いものがあったのだけど、そういうこともあってか、佐川ゼミはスタート当初からたいへん厳しいことで知られていた。わたしの入学時は精華が短大から4年制にかわった直後くらいだっただろうか。短大時代よりもじっくりと教えられるというので、先生もずいぶんはりきっておられたのだろうと思う。
 とはいえ、わたしなんかは不肖の弟子というにも口はばったい、ただの落第生である。先生のご期待に沿えるような成績でもなかったし、今となっては当時のカリキュラムなんかもきれいさっぱり忘れてしまっているのだが、2回生のあいだじゅうははとにかく動物園通いが日課だったこと、くらいは鮮明に覚えている。動物の骨格を正確に把握し、クロッキーやデッサンの画面の中にしっかり表現すること。そのことをとくに口やかましく教えていただいた。たとえば、鳥が羽を休めて枝の上や水面にいる。動き回る四つ足動物と違って描くのがラクなので、ナマケモノの我らは好んで池の上の鴨を描いていたのだ。しかし、たとえ休息中の鳥であっても、いざその鳥が飛び立つ際には羽根の動きはこうなってこう動く、そのしくみを理解していなければ、そしてそう動く羽根であることをちゃんと描いていなければ、先生は決して認めてくださらなかった。「上っ面ではいかんのだよ、君ィ」と口癖のように言っておられたものである(何度も書くが、わたしは落第生である。折りたたまれた羽根の下を描くことなど、とうとう最後までできなかった)。
 
 自分で絵を描くことは卒業後数年で止めてしまったわたしだが、スタインバーグやサンペ、ボスクなど、欧米のカートゥーン黄金時代の作家をたくさん知ることができたのはこの学生時代である。漫画に限らず絵画全般の見方もふくめて、このころ教えていただいたもろもろは、直接的ではないのかもしれないが、自分の中に今も生きている、と思う。
 
 
 入学前から聞いていたうわさ通り厳しい先生であったし、水戸っ子らしい——といっていいのかどうかわからないが——豪放磊落な一面をお持ちでもあった。学生時代はずいぶん叱られもしたはずだが、しかしわたしには嫌な思い出などなにひとつない。先生がどう思っておられたかはもはや知る術もないのだが、わたしにとっては、生涯で唯一「恩師」と呼べる存在であった。
 
 棺のなかにお花を捧げた際、ただひとこと「ありがとうございました」たったそれだけしか言えなかった。
 
 「文化の日」にお葬式とは、いかにも父らしいことでしょう。と喪主が言っておられた。そういえば、精華大学ではこの日、恒例の学園祭(木野祭)がにぎやかに開催されていたはずである。帰りの新幹線の車中では、夕日を眺めていた。たいへん空気が澄み晴れ渡った秋の一日にふさわしい、とても美しい夕焼けだった。
 

2009 11 03 [design conscious, living in tradition] | permalink このエントリーをはてなブックマークに追加

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