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フーゴ・バルの逃走と闘争

 

Hugoball

●時代からの逃走 ダダ創立者の日記
 フーゴ・バル著/土肥美夫・近藤公一共訳
 みすず書房/1975年12月初版
 ISBN4-622-01566-8
 装丁者名記載なし
 
<かれは哲学者、小説家、キャバレーの芸人、詩人、ジャーナリスト、そして神秘家であった。>——ハンス・リヒター
 
『時代からの逃走』——故国ドイツから脱走し、自ら創りだした“ダダ”運動からもいちはやく抜け出し、あろうことか大恐慌時代すら待たずにこの世から早々におさらばしてしまったフーゴ・バルの、あまりにも有名な一冊。わたしはつい最近になってようやく手に入れ、たいへん興味深く読み終えました。この本はダダ誕生前後の活動の記録として第一級の史料なんですが、ダダ以外について書かれた、同時代のドイツに対する思想的・哲学的な思索や、宗教や神秘主義に関する言説などについては、わたしには難しすぎてとうてい歯がたちません。それでもたいへん興味深い人物であることにかわりはないので、わたしなりにバルについて知り得たことなどをつらつらと書いてみます。以下、ちょっと長い文章になるかもしれません。

 
 フーゴ・バル Hugo Ball は1886年2月22日生まれで、1927年9月14日にわずか42歳で亡くなっています。第一次大戦中、亡命先のスイス・チューリヒで「キャバレー・ヴォルテール」を開き、そこに集まったアーティストたちが“ダダ”なる語を<発見>。このキャッチーなネーミングのおかげで、キャバレー・ヴォルテールを拠点に展開された前衛芸術運動は——ほぼ同時期、ニューヨークでもマルセル・デュシャンやフランシス・ピカビアらが同じような傾向の作品を創り始めていたにもかかわらず——現代芸術の母体、偉大な発祥の地という称号を得ることになりました。
 
「ダダ」についてなにかを書くなら、まずチューリッヒ・ダダから、そしてなによりキャバレー・ヴォルテールから始めること。そういう図式がなかば公式化しているのでしょう、さらに、そんな「ダダのはじまり」をよりドラマティックに描きたい歴史家が多いのでしょう、この小さなキャバレーで行われたいくつものイヴェント=「夕べ」は、以降のダダ運動に比べてことさら詳しく描かれ、後世に伝えられてきたように感じます。
 『時代からの逃走』を読んで気づくのは、キャバレー・ヴォルテールにせよつづくギャラリー・ダダにせよ、実際の活動期間は驚くほど短いんですね。細かく言えば、ヴォルテールは1916年2月5日に開店、6月閉店。ギャラリーの方はもっと短く、翌1917年の3月17日から5月28日の間だけしかやってません。あまりに濃密だったからこそ長くは続かなかったのでしょうか。まさしく「歴史は一夜にして作られる」典型だったと言えるのかも。
 
 それにしても、なぜ前衛芸術運動の舞台が「キャバレー」だったのか?
 
「キャバレー」というとちょっといかがわしいお店というイメージを抱く向きもあるかもしれませんが、元来ヨーロッパ圏では舞台付きの酒場のことを指しています。いまの日本風にいうなら「ライブハウス」という方が近いかもしれません。なかでもドイツのカバレットはより文学的で、演じられるのも「言葉のパフォーマンス」が多かったようです。ドイツ初のカバレットは1901年に登場、その最初から「参加の文学」をスローガンにして、政治思想や広く社会問題に積極的に関わろうとする文学者たちの表現の場所なのでした(グロイル『キャバレーの文化史』ありな書房、1983)。
 
 フーゴ・バルは1906年、哲学と社会学を学ぶため大学に入りましたが、やがて演劇に目覚めます。<一九一〇年から一九一四年まで、わたしにとっては一切が演劇だった。生活も、人間たちも、恋愛も、モラルも。演劇は、捉えがたい自由をわたしに暗示していた。(本書p.8)>
 ミュンヒェンの小劇場「室内劇場」(カムマーシュピーレ、バルの命名による)で台本作者として活動。同時期ミュンヒェンにいたワシリー・カンディンスキーやパウル・クレーら「青騎士」グループから強い影響を受け、あたらしい演劇を模索します。かれの生涯のパートナーとなったエミー・ヘニングスと出会ったのもミュンヒェンのカバレット「ジンプリチシムス」(当時人気だった同名の諷刺雑誌にあやかった店名で、雑誌とは無関係だが、ミュンヒェンの前衛的ボヘミアンの根城として有名だったらしい)で、彼女は同店の人気歌手のひとりでした。
 バルはミュンヒェンで「芸術家劇場」のプランを練ります。舞台美術や戯曲の担当者としてカンディンスキーやクレー、ココシュカ等の名前がありますが、そこに「バレー…フォーキン」の名前があるのが目を惹きます。言うまでもなく、ミハイル・フォーキンはバレエ・リュスによって一躍西欧で名をあげた振付家。1912年にバレエ・リュスから離れ、翌年にはアンナ・パヴァロワの招きでベルリンで仕事をしていますが、バルとは直接交渉があったかどうかは不明です。ただ、バルが“総合芸術”をイメージしていたとき、そこに絵画や音楽、演劇だけでなくバレエをも視野に入れていたことは注目に値するでしょう。主に美術や文学方面でのみ語られがちなダダの文脈ではあまり指摘されてはいませんが、バルは後年チューリヒでダダ運動を大々的に繰り広げたときにも、ダンスを重視しています。
 
 しかしながら1914年、第一次世界大戦が始まったことにより、このプランは日の目を見ることなく消えてしまいます。開戦当初のバルは戦争に熱狂し、自前で兵士の装備を買いそろえたとか。しかし志願かなわず軍隊に採用されなかった彼は、ベルギーへ向かう軍用列車に勝手に飛び乗り、そこで前線の光景を目の当たりにします。

それは彼にはあまりに大きな衝撃だった。戦争を精神的・国民的エネルギーの実現形態だと見ていた迷妄から覚め、戦争とは組織的殺人と破壊以外の何物でもないことを覚ったのである。だが、それから彼はじつは民間人にすぎず、任務も許可も受けず、好奇心でやってきた男だということが発覚した。一時はスパイではないかと疑われ、危うく射殺されるところだったが、しばらく拘留されたのち、ドイツへ送り返された。彼は「尋常ならざる精神性が、現実的感覚の尋常ならざる欠落と結びついた人物」なのだと、ヒュルゼンベックは書いている。(平井正『ダダ/ナチ1913-1920』せりか書房、1993、p.84)
 この一件以後、バルは急速に反戦派に傾き、ベルリンでリヒャルト・ヒュルゼンベックと「戦没詩人追悼式」なる催しを開催。一見なんでもないタイトルだけど、実は敵国フランスの詩人を追悼するというもので、このイヴェントはいくぶんかの反響があったようです。
 二人はつづいて「政治の夕べ」を開催、しかしこれは失敗に終わり、1915年5月12日に三度目のイヴェント「表現主義の夕べ」を開きます。ヒュルゼンベックはのちにこのイヴェントを<ダダ発生の基礎的事件>と自己宣伝しますが、どうやら実情はそんなにたいしたものでもなく、新聞に<なんだかはっきりしない喧噪に終った>と書かれる程度のものだったそう。かくしてバルは戦時ドイツに失望し、国外へ<逃走>します。
 
* * *
 
 バルはエミー・ヘニングスと一緒に中立国スイスへ亡命しますが、勝手に軍用列車に飛び乗ってしまった男がよくもドイツ国外へ出られたもの。果たせるかな、脱出時に偽名と旅券詐称で一時監禁されます。ここで強制送還されなかったのが不思議なくらいです。まあ、初期ダダに関わったアーティストたちは多かれ少なかれ精神に異常を来した者、と見られていたフシがありますから(ヒュルゼンベックしかり、トリスタン・ツァラしかり)、少なくとも政治的に危険な人物であるとは判断されなかったのでしょう。
 
 バルとヘニングスは亡命後すぐにダダをはじめたわけではありません。居を定めたチューリヒで職を得られなかったため、同年10月から「フラミンゴ」という寄席演芸(ヴァリエテ)の一座に、ジェリィという芸名でピアニストとして働きます。この一座にはヘニングスも歌手として出演しました。
 翌1916年、チューリヒ市内の小さなレストランを借り受けて「キャバレー・ヴォルテール」を開店。知人宛の手紙に<「ミュンヒェンの“ジンプリチシムス”スタイルで、しかしもっと芸術的で、もっと意図的な芸術家酒場を、二月五日に開きます」(平井『ダダ/ナチ1913-1920』p.92)>と書き送っていることからわかるように、バルは最初からはっきりカバレット経営を意識していました。
 ここで店名をドイツ語のカバレットではなくフランス語のキャバレーにしたこと、さらにフランスの啓蒙時代の哲学者ヴォルテールの名前を持ち出したのは、ベルリンでフランス詩人の戦没者を追悼したときと同じように、かれの「反戦」の意志のあらわれだったのでしょう。ヴォルテールといえば「私はあなたの意見には反対だ、だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」という名文句が有名ですが(もっとも、Wikipediaによれば本人の言葉ではないらしい)、言論と表現の自由の象徴として、あるいは反戦と平和の旗印として、あるいは国家主義に凝り固まっていた大戦中のヨーロッパを乗り越えるものとして、バルはこのネーミングにいろいろな思いを込めていたのだと思われます。
 
 バルも<教化と芸術の理想を演芸(ヴァリエテ)プログラムとして実現する、これこそ時代に抗するわれわれ流儀の〈カンディード〉だ(p.128)>と書いています。このエントリ冒頭に、少し遅れてキャバレー・ヴォルテールに参加した画家ハンス・リヒターの言葉を引用(リヒター『ダダ 芸術と反芸術』針生一郎訳、美術出版社、新装版1987、p.27より)していますが、リヒターの描くバル像の三番目に<キャバレーの芸人>が置かれているのは、そういうわけでとても自然なことなのでした。バルはここで詩の朗読だけでなく、ピアノも演奏しています。
 有名な音声詩「Gadji beri bimba」を朗読したのは6月23日。バル自身によるものではないですが、この実験作がどういう雰囲気のパフォーマンスだったかは、UBWEBというサイトで聴くことができます(こちらからどうぞ。もっとも、バルは「Gadji beri bimba」を独りで朗読したのに対し、こちらは鳴り物なんかも入った複数人によるパフォーマンスなので、受ける印象はそうとう異なっているはず)。このときかれは奇妙な<キュビズム風の衣装>に身を包み、<シャーマン教徒のような帽子をかぶ>り、<ゆっくり、おごそかに朗読し始め>たのはいいけれど、<どのようにして最後までやりとおしていけばいいのか>途中でわからなくなってしまったとか。この音声詩と、これを朗読するキュビズム風衣装に身を包んだ姿の写真。このふたつが現在のフーゴ・バルのイメージとして決定的なものになりました。バルの考える“ダダ”は実にこのような「全身体的な表現」なのであって、デュシャンやマン・レイらによって純粋に造形芸術の実験場だったニューヨーク・ダダとも、ヒュルゼンベックやジョージ・グロスらによって過激に政治化したベルリン・ダダとも、あるいはブルトンとツァラの文学的確執により崩壊したパリ・ダダとも異なる、チューリヒ・ダダならではの特徴だったと言えるでしょう。

 もっとも、連日のように繰り広げられるキャバレーでの出し物があまりに濃厚だったのか、開店してまだひと月ちょっとしかたっていない3月15日、バルは早くも<カバレーは休養が必要だ。こんな緊張状態で毎日登場していてはただ疲れはてるだけでなく、心身ともに消耗しきってしまう(p.108)>と書いています。キャバレーは上記の音声詩パフォーマンスがあった直後に閉店。うさんくさい外国人がたむろし毎夜のように怪しげな喧噪が続くキャバレーに、地元住民からの苦情が多数寄せられたためとも言われていますが(チューリヒ・ダダには地元スイス人アーティストはほとんど参加していない)、なによりバル自身がこれ以上の継続には耐えられなかったのでしょう。チューリヒ度量衡会館で7月14日に行われた「ダダの夕べ」を最後にバルは運動から<逃走>し、以後ダダの主導権はトリスタン・ツァラが握ることになります。
 翌1917年、ツァラからの呼びかけに応じて、バルはふたたびチューリヒで「ギャラリー・ダダ」を開きます。画廊(ギャラリー)とはいえただ絵を並べるだけの場所ではないのは前年のキャバレー・ヴォルテールと同じ。オープニング・イヴェントには詩の朗読や音楽に混じって、ハンス・アルプ夫人であるゾフィー・トイバーによるダンスと、クレール・ウァルターというひとの「表現主義舞踊」なる演目も記録されています。身体パフォーマンスへの関心を、バルは変わらず持ち続けていたのでしょう。それはミュンヒェン時代に演劇に打ち込んでいたことの証でもあるでしょうし、“芸術”を細かなジャンル分けなどしない、まるごと人間の問題として捉えていたことの証明でもあったのだと思います。
 
 1917年5月末でバルのダダは終わります。それから亡くなるまでの10年間、かれはスイスに留まったまま、自身の思索を深めていきます。
 本書あとがきで、訳者の土肥美夫さんはこう書いています。

バルの『時代からの逃走』は、現実には、戦争に狂奔するドイツからの文字通り決死の離脱行為であり、それが己の内なるドイツと外なるドイツとに対して反省と攻撃の諸刃の刃を突きつける「大いなる拒絶」の行為となっていることは、この訳書のアフォリズム的文体にも、ドイツの戦争犯罪と国家理念を批判した『ドイツ知識人批判』(一九一九年刊)の攻撃的文体にも、通奏低音[ゲネラル・バス]として行間から強く感取され、彼の「時代からの逃走」は「時代への拒絶」とほとんど同意義ではないかと思わせるのである。(p.291)
 ことば遊びっぽくいうなら「時代からの逃走」はそのまま「時代との闘争」でもあったのかもしれません。
  本書はこんな書き出しではじまります——。
 生活はすっかりあみの目に巻き込まれ、身動きできなくなっている。一九一三年の世界と社会はそんなふうに見えた。一種の経済的宿命論が支配していて、それが各個人に、抵抗しようがしまいが、一定の機能をおしつけ、ひいては個人の利害関係とその性格をも左右している。教会はとるに足りない「救済事業」、文学は安全弁としてしか通用しない。どのようにしてこんな状態になったにせよ、この状態が現にあり、誰もそれから逃れることができない。〈…〉必要なのは、このメカニズムから抜け出そうとする人びとすべての連合であり、“お役に立つこと”に抵抗する生き方であり、使われたり、利用されたりするあらゆるものとは逆の搦手へと死物狂いで没頭することだ(pp.6-7)

 
<バルの意味にたいする不屈の探求は、時代の無意味とは対照的かもしれないが、疑いの余地がない。かれは懐疑にみちた理想主義者であって、外界にたいするきわめて深い懐疑の念にもかかわらず、その生命への信仰は失われることはなかった。>——ハンス・リヒター
 

2009 11 08 [booklearning] | permalink このエントリーをはてなブックマークに追加

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