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[book]:戦争のある暮らし

 

Sensounoarukurashi

●戦争のある暮らし
 乾淑子編/水声社/2008年8月15日刊
 ISBN978-4-89176-690-0
 装丁者名記載なし
 
 思わずどきり、とするタイトルであります。
 
 編者をふくめ9人の研究者による論文を掲載した本書は、日清・日露戦争から太平洋戦争にいたるまでの、国家が戦争へと一体となって向かっている時代の「暮らしの中のデザイン」を取り上げています。対象は子供用の飯茶碗であったり、雛人形や五月人形であったり、着物の柄であったり、アニメーション映画(『桃太郎 海の神兵』)であったりとさまざまですが、いずれも「戦争完遂という国家の意思」が生活の中でどのようなかたちで具体化され、「商品」となって流通されていたかをみています。そう、戦争もまた消費社会のなかで記号のひとつであり、戦争柄は、売れるからこそこぞって商品化されていたんですね。


 わたしは以前このブログで「戦争とデザイン」という記事を書いたことがありますが、そのときぼんやりと考えていたことが本書冒頭にすっきりと書かれていたのが嬉しい。

 民衆はいつも、愚かで暴力的な為政者によって戦争に巻き込まれるだけなのだろうか。また、民衆といい、政治家といい、それほどに違う種類の人間なのだろうか。権力を持とうが、貧しかろうが、一皮むけば私達は同じ人間であり、同じような弱さや狡さを具えてはいないだろうか。(中略)同じ時代の中にいて、同じ熱に浮かされた人々が作る生活雑貨には、紛れもなく戦争への意志が、賞賛が、埋め込まれ、香り立つ。その数々のものを後押しした戦争への流れに飲み込まれてみれば、権力者とは比べ物にならないほどの悲惨と苦悩に追い込まれてしまうのにも関わらず、自らの暮らしを戦時色で飾った私達の先輩の作った雑貨や工芸の美しいこと、楽しいこと。(pp.7-8「はじめに/乾」)
 <戦時色で飾った雑貨や工芸>品が<美しい>かどうかは評価のわかれるところですが、少なくとも日清・日露や太平洋戦争初期の「日本が勝っていた」頃、おそらくほとんどの国民が<楽し>かっただろうとは想像できます。日清・日露での戦果など、本土にいて実際の戦闘を目の当たりにできない大方の日本人にとってそれは芝居か講談のなかの「物語」とほとんど同じだったでしょう。


 「戦争柄」は「吉祥柄」であったという指摘が、本書の複数の論文中に見られます。それが子供のための商品である場合は、子供がすくすくと健康に育つようにという願いを込めて親が買い与えたものでしょう。五月の節句に飾る冑人形の近代版というニュアンスでしょうか。世界を相手にした戦争は、日本が近代国家として世界と互していく上で避けては通れぬ道であり、であるならばそれは、どうしても勝たねばならぬ戦いでした。そして、混沌とした世界の秩序を一気に再編させる、世直しという側面も持っていたはずです。
 
 戦争にある種の「救済」を見るというのは何も日本特有のものでもなく、第一次大戦がはじまったばかりの頃のヨーロッパの知識人も似たようなものでした。たとえば、ドイツにいたフーゴ・バルという劇作家は、開戦当初は自費で軍服を買いそろえるほど戦争に熱狂していました。彼は志願叶わず検査に落ちましたが、それでもどうしても戦争に参加したかったので勝手に軍用列車に忍び込み、辿り着いた前線で戦闘の実態を目の当たりにして、ようやく戦争の本質を思い知った——というエピソードが残っています。バルの行動はいささかエキセントリックでしょうけど、戦争がどういうものなのかなんて、じっさいに本土空襲などで身をもって経験するまでは、あまり真剣に考えなかった「普通の善良な国民」も非常に多かったのではなかろうかと思います。
 本書94ページに、「福引口張絵」というカードが紹介されています(明治26年発行、今でいうトレーディングカードみたいなものでしょうか)。裏面に厚紙を貼ればメンコとして遊べる絵札で、そこには<日露戦争の日露双方の軍人と歌舞伎役者が交互に描かれ>ていました。味方(日本)の英雄、敵(ロシア)の大将、そして当代人気の歌舞伎役者が同一平面に均等に描かれているのがとても面白い。当時の戦争が、一般の国民にとってはまさに歌舞伎と同じような「物語」として捉えられていたことの、なによりの証拠といって良いんじゃないでしょうか。
 
 
 近代国家の証としての戦争。であるなら、「勝利こそが日本をひとつにまとめる最良の薬である」と為政者は気づいていたことでしょう。太平洋戦争以降、日本が負けだしても「大本営」はその事実を隠しあるいはごまかし続けましたが、それはおそらく、「とにかく勝っていると見せかけておかないと国体が維持できなかった」からでもあるでしょう。明治になって急ごしらえでかたち作られた国民国家というフォーマットは、所詮はその程度に脆く儚く弱いもの。それは同時に、「近代」のもつ脆さでもありました。
 そして、それはひょっとすると現在でもそれほど変化はなく、たとえばスポーツなどで海外で活躍する日本人選手には右も左も関係なく「日本中が熱狂」するように、そしてその熱狂を反映もしくは加速させるワールドカップやオリンピック報道の過熱ぶりにあきらかなように、「勝っていないと日本がひとつになれない」のは…今も昔も同じなんですよねえ。
 
 その意味で、本書タイトルの「戦争」とは、広く「国家的イヴェント」と言い換えてもいいかもしれません。「戦争のある暮らし」とは、明治以後の「国家のある暮らし」のこと…わたしは本書をそういう風に受けとりました。
 日本の高度成長時代を象徴する東京オリンピックや大阪万博もまた、国威発揚のためのイヴェントであり、擬似戦争とでも呼べるものでした。もう少し下って、1980年代後半から90年代はじめ頃のいわゆる「バブルの時代」も、国中が浮かれていたという意味では国家的イヴェントであり、そこでも「日本が勝ち続けていた」からこそ誰もが浮かれていたのだと思います。
 
 バブル経済崩壊以後、「永遠に続く右肩上がりの経済成長」というモデルがとっくに破綻しているにもかかわらず(それでも大本営なみに勝ちを演出し続け、とうとうバレてしまったのが例のリーマンショック)、「経済」に代わる次の価値観/世界観がうまく見いだせないまま今に至っているわけですが(いわゆる“エコ”も、あくまで「経済発展第一」ですしね)、そういう時代だからこそ、「国家(および国家的イヴェント)」に寄りかからず最低限必要以上に国に依存しない、そういう生き方が重要になってくることでしょう。本書はただ単にかつての「日本が戦争をしていた時代」を再検討しているだけではなく、まさに現代の読者にストレートに訴えかけるものとして読まれるべき一冊なのではないか。わたしはそういう風に読みました。
 

2009 12 19 [booklearning, design conscious] | permalink このエントリーをはてなブックマークに追加

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