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[book]:ドボク・サミット

 

Doboku_summit

●ドボク・サミット DOBOKU SUMMIT
 ドボク・サミット実行委員会編
 武蔵野美術大学出版局/2009年4月20日初版
 ISBN978-4-901631-82-2
 ブックデザイン:寄藤文平・北谷彩夏・土谷未央・坂野達也
 
 2008年6月15日、武蔵野美術大学にて行われた同題のイヴェント(と言っていいのかな)のレポート本。今ごろ読後感想文を書くのはなんだか今さらながら感たっぷりですが、なにせ本を手に入れたのがつい先日だったもので。
 
 書影にオビも写してあるので、題名の「ドボク」が何を指しているかは読み取っていただけるでしょう。ダム団地工場ジャンクション鉄塔水門の6ジャンルの鑑賞マニア5人が集まって、それぞれのマニアぶりをプレゼンテーションするパートと、その後のシンポジウムを収録しています。
 もっとも面白く読んだのは、その後日譚とでもいうべき「STUDY」のパートで、当日の観客のアンケート結果や実際にこの種の建造物に携わっている「作り手がわ」からの意見などが収録されています。
 
 この本の指す「ドボク」はいわゆる「土木」とは少し異なるもので、それは団地や工場を含んでいるからなのですが(以前アサヒカメラ誌の特集では「巨大建造物」と呼んでいた)、共通しているのは、いずれもわれわれが「生まれる前からそこにあった」、あるいは「気がついたらできていた」ものたち。これらの建造物群は、現代人にとっての<自然>でもあります。
 牧場や里山、棚田のように、本来は人の手が加わった人工的な風景であるにもかかわらず、まるで一切人の手がかかっていないかのようなフリをして「自然は美しいねえ」などと褒めそやす向きもありますが、「ドボク鑑賞者」はそんな偽善性や欺瞞性を鋭く衝いています。というよりも、都市生活者にとっては工場や団地やガスタンクや高速道路のジャンクションこそがもっとも身近な大自然であり、原風景なんですね。だからそれらを愛でつつ眺める、というのもごくあたりまえな行為のはずなんですが、どうも「里山はイイが工場はイカン」みたいな風潮が世間には抜きがたくある。税金を使ってつくられるインフラ系建造物には十把一絡げで「ムダ」のレッテルを貼りたがる。たとえそう言ったほうが「知的に見える・進歩的なフリができる」という、ただのファッションに過ぎないとしても。


 
 インフラと言えば、ここには登場していませんがたとえば「酷道」なんかもそうですね。べつに国道や県道クラスでなくとも、ちょっとした山のふもとにも廃道はたくさんあって、かつては必要だった道路も人がいなくなるとたちどころに朽ちてゆくんだなあと、バイクで走っていていつも思います。また住宅でも、人が住まなくなると急激に劣化します。
 
 人が「ふつうに」暮らそうと思えば、その生活圏を絶え間なくメンテナンスし続けていかなければならないものです。「ふつうに暮らす」というときの「ふつう」とは何か、をこそ本来考えるべきなんですが、日常を都市のなかで過ごしている分にはそんなことなんてつい忘れがち。ですが、そういう「ふつうの」日常がいかにあっけなく脆いものか。酷道や廃墟の「鑑賞」では、そういうことも否応なく考えさせられます。文字通り湯水の如く使っている電気や水が、あるいは毎朝当然のようにコンビニやキオスクに並ぶパンやおにぎりが、どういう仕組みでわれわれの手元に届いているか。都市生活者にとっての「自然」とはいったいどういうものなのかを、彼ら「ドボク鑑賞者」たちは静かに明示してくれているのですね。
 
 
 かくいうわたしも擁壁が好きで、かつて半年間ほど『擁壁見物』なるサイトを作っていたことがあります(現在は諸事情により絶賛長期お休み中。ハードディスクの中にはまだたくさんの画像が残ってるんですけどね)。ダイナミックだけど繊細な表層、たとえ個々のパーツは大量生産の工業品であっても、完成した総体としてみればひとつとして同じものが存在しない造形の多様性が気に入っている理由で、たぶん同じように好きな人は大勢いるだろうと思ったら、ほとんど誰も気にも留めていなさそうなのがかなり意外でした(最近、デイリーポータルZで、ライターのT・斉藤さんが長崎県下の擁壁をちょくちょく取り上げておられます。こちらも)。海に近い場所の擁壁、雪が多い地方の擁壁など、地域によってもいろいろ差があるんじゃないかと予想しているんですけど、そういう追っかけ旅をする余裕が当方にはまるでないので、誰かがやってくれないかなあとひそかに思っていたりしますが。
 
 
 「ドボク」がともすれば白眼視されている、ということは本書にもたびたび言及されています。そこには公害問題や環境破壊問題、税金のムダ遣いなどさまざまな問題が横たわっていて、<ただ好き…>(本書オビ)という非常に明確でこの上なく単純な動機で活動をはじめた彼ら「鑑賞者」は、そのことに少なからずとまどっているように見えます。「鑑賞者」はあくまで「傍観者」であって「当事者」ではないのに、と。
 インフラ設備や工場は、回り回って当の都市生活者の日常をどこかで支えているはずなので、本当のところは全くの部外者ではありえないのでしょうけど、「ふだん目にしていても誰も気に留めていない」存在だから「当事者」意識も希薄であり、またそれだからこそ手放しで<ただ好き…>という、ある意味身勝手な立場に居続けられるという状況もあるでしょう。
 けれど本書後半では、「鑑賞者」の存在が「作り手がわ」になんらかの影響を与えることもあるのではないか、という指摘もなされています。コンサートホールやライブハウスなら演奏者と観客の関係はもっとダイレクトで、観客の質や量がそのまま演奏者のパフォーマンスに跳ね返ってきますが、なにせ相手は超重量級の「ドボク」。痛いほどの大コールをしつこく送り続けて、いまようやくそのレスポンスが返って来つつある、という段階でしょうか。
 こういうところに<作者 — 作品 — 観客>の図式があらわれようとは。ちょっと不意を突かれたような感じで実に興味深く、とても面白く読みました。
 
 
 
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2009 12 31 | permalink このエントリーをはてなブックマークに追加

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