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ロトチェンコのまなざし
●ロトチェンコ+ステパーノワ —ロシア構成主義のまなざし—
[東京展]2010年04月24日〜06月20日 東京都庭園美術館
[滋賀展]2010年07月03日〜08月29日 滋賀県立近代美術館
[栃木展]2010年09月19日〜11月07日 宇都宮美術館
【カタログ】
発行:朝日新聞社
デザイン:服部一成+山下ともこ
展覧会はずっと前に観ていたにもかかわらず、どうにも感想文が書けずほったらかしにしておりました。けれども先日東京でマン・レイ展を観たことで、もしかしたら胸につかえていたもやもやが、ようやく言葉となって出てくるかも…こないかも…どっちだ。
* * *
実は、マン・レイとアレクサンドル・ロトチェンコはほぼ同世代なんですね。正確にはマン・レイが1890年8月27日フィラデルフィア生まれ、ロトチェンコは1891年11月23日(ユリウス暦。西暦換算では12月5日)サンクト・ペテブルク生まれ。ちなみに亡くなったのはロトチェンコの方が20年も早く、1956年。マン・レイは76年に没しています。
写真はもちろんデザインの分野でもすぐれた作品を遺すなど、両者には共通点も多いのですが、あらためて二人の仕事を見較べてみるとその違いが際立ちます。
すごく乱暴に言ってしまうと、マン・レイの創作のモチベーションは「悦楽」でしょう。“エロティシズム”などとオブラートにくるんだ言い方をするにはあまりに露骨なセックスを主題にした作品も多数あるし、ご本人も「老いてますます盛ん」だったようだし。それ以外の作品でも、「生きる歓び」がそこかしこににじみ出ているのがマン・レイを観る楽しさのひとつです。
対するロトチェンコの方は、じゃあ「禁欲」か。というとちょっと違う気もしますが、彼の作品を眺めているとあまりのストイックさに息苦しくなったりもします。
たとえば、1925年にパリで開かれ、1600万人を越える観衆を集めた「現代産業装飾芸術国際博覧会」。いわゆる“アール・デコ”が時代を象徴する様式であることを高らかにアピールしたこの博覧会には、ソヴィエト館に展示された「労働者クラブ」の室内デザインでロトチェンコも参加しています(ちなみにマン・レイはこのときオートクチュールのカメラマンとして参加)。ロトチェンコのこのデザインは、ロシア構成主義の精華のような無駄のない端正な仕事なんですが、「労働者の余暇の時間のためのリラックスした空間」というコンセプトのわりには窮屈そう。となりの席との間隔の狭さとも相まって、この椅子はまるで拘束具じゃないかとさえ思えてきます。統一感があると言えば聞こえはいいですが、人間の身体とその行動をたったひとつのスケールに落とし込み、そこからの逸脱を許さない、そういうデザインでもあります。そうして、それはソヴィエトという、誕生したばかりの若き社会主義国の理想でもありました。
人間の身体を基準にするのではなく、高邁な理念が基準となってそこに人間をあわせてゆく。こういう思想はなにもロトチェンコに限ったことではなく、タトリンの「第三インターナショナル記念塔」をはじめロシア・アヴァンギャルドぜんたいの傾向ではありましょう。「イズム」を前面に押し出した芸術運動は、どれもみなその「イズム」に縛られ、やがて自家中毒を起こして崩壊する運命にあるものですが、ロシア/ソヴィエトの場合はそれがことさら顕著であったと言えます。
写真の分野での両者の違いはもっと際立っています。マン・レイもロトチェンコも、新しい写真表現をいくつも試みていて、交錯していた時期もわずかながらあったんですが。
[…]一九二二年から一九二三年までの構成主義者とダダを中心とするアヴァンギャルドたちの蜜月期間が、さまざまな場所で対立に変わりつつあったことは事実であった。その背景にはイデオロギーの対立、芸術上の主導権争い、新しい表現の発明(たとえばモンタージュやフォトグラム、タイポグラフィの試みなど)に関する争いなどがある。[…]ロシア革命を頂点にした芸術のアヴァンギャルド全体も、この一九二四年から一九二五年を境に変質していく。ソ連ではレーニンが死に、すでに革命の初期の熱狂は冷め、行き過ぎた構成主義者やアヴァンギャルドへの批判も始まっている。(「構成者の空間(ヴィジョン) エル・リシツキーの生涯と仕事」寺山裕策、『エル・リシツキー 構成者のヴィジョン』所収、武蔵野美術大学出版局、2005年、P.32)
盟友であった革命詩人のマヤコフスキーが「自殺」した1930年4月以降、ロトチェンコの作風は変わっていくのですが(1934年8月に開催されたソヴィエト作家大会で「社会主義リアリズム」が唯一のスタイルであると決議されたことも非常に大きいでしょう。以前から批判の強かった構成主義をはじめとするロシア・アヴァンギャルド芸術運動は、ここに至って完全に息の根を止められました)、20年代の彼の写真は極端な仰角でパースをうんと効かせた独自のスタイルを追求していました。右の写真は連作《ミャニツカヤ街の家》より「避難梯子」、1925年。いかにも構成主義者らしい構図のとりかたですが、観るものをどこか不安にさせる写真でもあります。ロトチェンコの写真はほとんどがこういう極端に見上げた構図やナナメに傾けた構図のもので、ダイナミックな運動性を画面にもたせることに腐心しています。
わたしの眼があまりに米欧西側諸国の美意識に馴れすぎているせいからなのか。ロトチェンコと彼のパートナーであるステパーノワの代表作がずらりと並んだ美術館のなかで、わたしは立ちすくんでいました。「ひと」の気配や息づかいがほとんど感じられない絵画や立体物や写真。いや、服飾デザインや演劇のための舞台装置など、そこに確かに人間はいるのですが、それはシステムの一部としての、いわばパーツであって、主役ではない。人間のためのデザインではなく、デザインを実現するために人間が存在している。そんな風に感じられてしょうがなかったのです。
重苦しい気分を抱えながら歩いているうち、ある一枚の写真に眼が止まりました。
「有名な肖像」と副題のついた、煙草をくわえたステパーノヴァのポートレート(1924年)。やわらかな微笑みがとても印象的です。ポートレートは他にも数点出展されていましたが、こんなすてきな笑顔が観られる作品は、広い会場のなかでただこれ一枚のみ。わたしはこの写真の前からしばらく動けず、じっと眺めているうちに、なんだか泣けてきそうになりました。愛する家族に向けられた、ロトチェンコの優しいまなざし。おそらくはプライヴェート写真なのでしょうけど、それだけに、ふたりの愛情の深さがにじみ出ている一枚です。
この写真の一年後に生まれた愛娘ヴァルヴァラ・ロトチェンコの回想によれば、父親としてのアレクサンドル・ロトチェンコは、家族を愛し冗談が好きで、優しさに満ちたひとだったそうです。今回の展覧会はふたりの業績を提示することに主眼が置かれているため、その人となりについてはほとんど触れられていません。他の作品群を眺めているだけでは、とかく冷徹で合理性のみを重んじるかのような厳しい人間像を描いてしまいそうになるのですが(そしてそういう一面ももちろん間違いではないのでしょうが)、この写真はそんな安直な感想をひっくり返してしまう一枚です。
先にも触れましたが、ロトチェンコの作家としての活動は、国家体制の変化にともなって1920年代後半以降大きく変わらざるを得なくなっていきます。後半生はおそらく失意の日々であったと想像できます。
下に引用するのは、そんな時代に、娘ヴァルヴァラに宛てた手紙の一節です(1943年8月11日付)。
いとしいミューリャ!
もし万が一、きみも私がしているようなことに毒されているとしたら。きみの無事を願うばかりだ。
私のように生きるな。もっとふつうに、ほかのみんなのように生きなさい。
私は「ほかのみんな」のように生きることは望まなかった。
私は有名になった。フランスやドイツ、ヨーロッパ中で、またアメリカでも知られるようになった。
そしていまは何もない。
一九二一年以降は思い出されることもないままだ……
(中略)
私が想うのはきみのことだ、ミューリャ!
きみの人生は幸せなのだろうか。
そうは思えない。
私はすべてのことを疑っている。(金沢一志・訳)
(『ロトチェンコの実験室』ワタリウム美術館編、新潮社、1995年、pp.26-27)
2010 08 07 [design conscious] | permalink Tweet
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