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ガブリエルとイゴールとバレエ・リュス
●シャネル&ストラヴィンスキー
発売:ウォルト・ディズニー・スタジオ・ホーム・エンターテイメント/VWBS1111
監督:ヤン・クーネン/2009年フランス映画
はるか昔の歴史的事件ならともかく、まだ100年も経っていない近過去の、実在の有名人をモデルにしたフィクションってどうなの、という気がしなくもないのですが…、デザイナー、ガブリエル・ココ・シャネルと作曲家、イゴール・ストラヴィンスキーの短い情事を描いた映画『シャネル&ストラヴィンスキー』を観ました。映画館で観たかったんですが気がついたら終わっていて(というよりうちの近所じゃどこもやってなかったような)、先日ブルーレイソフトが発売されたので、ようやく観られた、というわけです。
ストラヴィンスキーとシャネルをつなぐ接点というとディアギレフ率いるバレエ・リュスとなるわけで、個人的にはそのあたりがどれほど描かれるのかという興味がいちばんだったんですが、そのディアギレフも脇役として登場しています。他にワツラフ・ニジンスキーやレオニード・マシーンも少し顔を見せますが、うーん、わたしの中のイメージとはそれぞれ少しずつ違ってるようなそうでもないような、微妙なところ。たとえばディアギレフはもっともっといかがわしい山師っぽくてもよさげなのに映画の中では常識的な好紳士だし、ニジンスキーももっと狂気を含んだエキセントリックな青年として描いて欲しかった。この作品、物語も演技も、全般的にほどよく抑制されていたという印象を持ちました。
ココ・シャネルがバレエ・リュスを支援していたのは有名ですし(ディアギレフの葬儀を取り仕切ったのも彼女)、24年発表の「青列車」という作品では衣装デザインも担当してますが、ストラヴィンスキーと不倫関係にあったことはまったく知りませんでした。つか、このふたり、ともに亡くなったのは1971年だからついこのあいだという感じなんですが、こんなお話をつくって、遺族や関係者からナニも言われなかったんでしょうかしら。
映画ではふたりは何度も関係をもちますが、実際はたった一度だけのごく短い恋愛だったと、特典映像のインタビューで主演女優(アナ・ムグラリス)が語っています。さきに<ほどよく抑制された>と書きましたが、情事のシーンは直接的な描写を省いてもよかったんじゃないかなあ。主役の二人が眼と眼をあわせていたり思わせぶりな動作をするだけで充分伝わるのに、ベッドシーンがせっかくの官能性を台なしにしているように感じました。
史実をたくみに織り交ぜつつフィクションに仕立てあげるのはこの手のオハナシにはよくある手法で、そのさい、物語の序盤にはできるだけ事実をそのまま語ることであとのフィクションに真実味をもたせます。この映画でも、制作陣のチカラがもっとも入っているのは最初の部分かもしれません。
序盤まもなく、バレエ・リュスの歴史に残る大騒動が描かれます。史実としてはこの騒ぎ、1913年5月29日パリ・シャンゼリゼ劇場で起こっています。警官が出動するほどの騒ぎになったこと、観客を静めるために客席の照明を点滅させたこと、「歯医者を呼べ」とヤジが飛びすかさず「二人だ」と別の客が叫んだことなどなど、映画に描かれたエピソードはリチャード・バックル『ディアギレフ ロシア・バレエ団とその時代』(リブロポート・1983年/原著は1979年刊)や藤野幸雄『春の祭典 ロシア・バレー団の人々』(晶文社・1982年刊)など多くの本にも描かれているとおり。映画を観ながら、思わずニヤニヤしてしまいました。
そんな大騒ぎのきっかけとなった上演作品はストラヴィンスキー作曲、ニジンスキー振付の「春の祭典」。このバレエはその後たった九回しか上演されませんでした。音楽が正当な評価を得たのは翌年コンサート形式で上演されてから。
初演時の失敗もあって、ディアギレフはこのバレエをしばらくお蔵入りにしていましたが、1920年のシーズンに新作が間に合わずこれを再演することにしました。衣装や背景の絵などがあまり使われなかったため、痛みがないので新調しなくて済むという、主に経済的な理由からだったそうです。しかし、その時すでにニジンスキーの振付は忘れられていて、1920年版はレオニード・マシーンが新たに振付をしています。
以後、ニジンスキー版は長らく「幻の」作品となっていました。ふたたび日の目を見るのはずっとのちで、1979年になってミリセント・ホドソンという人がようやく復元に挑戦。8年もの歳月をかけて当時を知る人たちを訪ね綿密な調査を行います。この復元版はのちにパリ・オペラ座のレパートリーに加えられ、92年には来日公演まで行われています(わたしは残念ながら観てませんが)。
エントリの最初に掲げた写真の、奥に写っている本が、ホドソンの著した研究書です。下の写真はそのなかの一部。楽譜とそのシーンに対応する振付のスケッチが描かれています。
●NIjinsky's Crime Against Grace
Millicent Hodson著/Pendragon Press/1996年版
※写真の見開きはpp.72-73(クリックで拡大)
映画ではこのニジンスキー版をかなり再現していると思われます(映画のクレジットに振付として表記されているのはDominique Brunという人ですが、ちゃんと1913年のオリジナル・ニジンスキー版によるものと書かれています)が、細部までとことん忠実かどうかまではわたしにはよくわかりません。映画に出演したダンサーも不明ですが、エンドクレジットにはバレエ団の名前は見あたらなかった(たぶん。フランス語なんでよくわかりませんが)ことから、フリーランスのダンサーをかき集めたのかな。
ていうか、オペラ座版の復元舞台ってまだソフトとして販売されてないのかな。同じバレエ・リュス作品の「ペトルーシュカ」や「牧神の午後」なんかは昔レーザーディスクとVHSで出ていたんですがねぇ(これらの再発売も、首を長〜くして待ってるんですが)。
さて、映画は1913年の大騒動という導入部のあと、ロシア革命および第一次世界大戦を伝える当時のニュースフィルムをはさんで1920年に飛びます。ここからが物語の本筋。シャネルはストラヴィンスキー一家を自分の別荘に住まわせ、パリでは自分のブティックを持ってファッションデザイナーとして大忙し、そして香水の名作「No.5」を造ります。ただし、Wikipediaによればこの香水の発表は21年となっていて、あれれ。
物語の主要な舞台となるシャネルの家は、すでに後年のシャネルの美意識が完成しすぎてるような。セットに使われている調度品のひとつひとつがついさっき出来上がりました、というくらいピカピカにきれいすぎて、いささか違和感があります。まあ、画面の隅々までファッショナブルで、観ていて心地いい映像ではあるんですが。
この家でドロドロの愛憎劇が進行していくのですが、本筋のストーリィ紹介は割愛。映画ではなぜ「春の祭典」が再演されることになったのか、またストラヴィンスキーがこの自作曲をどう思っていたのか、などについてはほとんど触れられず、そのためエンディングに向けての物語の進行がちょっとわかりにくいかも。まあ、主役はどっちかというとシャネルの方だし、不倫があって、病身の奥さんが嫉妬して…とそっち方面が主題なんで、しょうがないのかもしれませんが。
ふたたび史実を調べると、ストラヴィンスキーの妻エカテリーナは1939年に亡くなっています。折しも第二次世界大戦へ向けてヨーロッパじゅうが沸騰し始める時代。彼はその年の秋アメリカに亡命。翌年、再婚します。お相手は、画家セルゲイ・スデイキン(1913年、「春の祭典」と同じ年に初演された「サロメの悲劇」の美術を担当)の妻でもあったヴェーラという女性。ストラヴィンスキーに彼女を引き合わせたのはディアギレフで、なんと1920年とのこと。前出の藤野さんの本によれば、出会って数カ月のちには二人の仲は緊密になっていたようです。うーむ、事実は小説よりもなんとやら。
劇中では1920年にディアギレフがストラヴィンスキーに紹介したのはココ・シャネルなんですが、なるほど、このあたりは史実と創作を巧みにブレンドしてますね。
2010 11 07 [dance around] | permalink
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comments
はじめまして。バレエ・リュスで検索してここにたどり着きました。芳賀直子さんのご著書、『ニジンスキー妖像~伝説のバレエ・ダンサー~』(講談社)もとってもきれいで素敵な本です。『バレエ・リュス』より前に出ている一冊です。サイトでふれられていなかったので、余計なことかな、とも思いましたが、きっとお好きなのではないかしらと思ったので…。また訪れてみます。
posted: あやね (2010/11/24 7:04:51)
コメントありがとうございます。
ご紹介いただいた本はamazonの「欲しい物リスト」にずっと入ったままなんです。いつもなぜか後回しにしてしまって。つい先日もビクトリア&アルバート美術館で開催中の展覧会「Diaghilev and the Golden Age of the Ballet Russes 1909-1929」図録を注文したばかりなので、芳賀さん本はまた先送りになりそうな…(汗)
posted: とんがりやま (2010/11/24 22:44:04)