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ABT『ロミオとジュリエット』

 
Abt2011
●アメリカン・バレエ・シアター『ロミオとジュリエット』
(2011年07月31日・滋賀県立芸術劇場 びわ湖ホール 大ホール)
 
 この演目は昨年2月に同じびわ湖ホールで、ニーナ・アナニアシヴィリ&グルジア国立バレエ団の公演を観て以来です(その時の感想文はこちら)。ただし振付のヴァージョンが異なってまして、前回観たのはキーロフ・バレエが1940年に初演したラヴロフスキー版を元に、後に息子が改訂したヴァージョン。今回のABT公演は英国ロイヤル・バレエのためにマクミランが振り付けた1965年のヴァージョン。有名な「バルコニー・シーン」をはじめ、細部で演出が異なってはいますが、大筋はもちろんシェイクスピアの原作通り。悲劇で幕を閉じるのは共通しております。
 昨年はただただアナニアシヴィリを観るためだけに出かけましたが、今回はプリンシパルよりもむしろABTが観たくて、チケットを買い求めました。もちろんジュリエットを演じるナターリヤ・オーシポワがどんなバレエを見せてくれるのかにはとても興味があったんですが。
 
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 冷静に考えるとこの物語、古典だからいいようなものの、21世紀の人間からしてみればなんともファンタジーなストーリーでして、仮面舞踏会で初めて出会った男女がなんでいとも簡単に恋に落ちちゃうの(つーか結婚早すぎ)、とか、名家同士の対立ってのはまぁかろうじて理解できるとしても、親の反対を押し切るために死を偽装するってそんなぁとか、ま、突っ込みどころはいろいろあるんでございます。しかしたとえどんなにトンデモなストーリーであっても、そこにリアリティと説得力をもたせてしまえるのが一流のダンサー。演劇と違って科白がない、つまりは「言葉」にはいっさい頼ることなく、ただ自らの肉体だけでそこに真実性を感じさせられるかどうかが、ダンサーの腕のみせどころなわけです。そのあたり、先のアナニアシヴィリは実に素敵に「ジュリエットという世間知らずの少女」を演じきりました。
 
 今回、ABTのゲスト・プリンシパルとしてジュリエットを演じたナターリヤもまた、このウブで一途で、そしてその純真さがために結果的に大きな悲劇を導いてしまったヒロイン役として見事でした。なによりダンスが瑞々しく、それだけで「若さ故のあやまちの物語」をよく表現できていたと思いました。それはロミオ役のデイビッド・ホールバーグも同様で、グルジアバレエ団公演と比べてロミオの存在感というか、男性側の苦悩や恋の歓びといった感情が多彩に表現されていて、ストーリーにぐっと奥行きが出ていたように感じます。
 加えて、衣装や舞台美術も、ABTはさすがに豪華で緻密。おなじハコで上演されたはずなのに、ABTの方がなぜか舞台が広く感じられたのは、たとえばかのバルコニーをはじめとして「上下」「前後」の空間を効果的に使えていたからかもしれません。
 
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 いつも思うのですが、ABTの舞台はとても「わかりやすい」。ダンスにメリハリが効いているし、登場人物のひとりひとりが実にリアリティのある芝居をしているからでもありましょう。
 一例を挙げるなら、たとえば、第二幕。ロミオとは敵対する(つまりはジュリエット側の)ティボルトという好戦的な男が、ロミオの親友であるマキューシオを挑発し、殺してしまう。ロミオは友人の仇を討つため剣を取り、激しい闘いの末ティボルトを倒しますが、そのあとティボルトの恋人だか嫁だかがあらわれ、彼の遺体を前に激しく泣き叫びます。その演技はバレリーナの芝居というよりもむしろハリウッド映画並みで、憎しみと哀しみの表現としてたいへんわかりやすく演じられています。もともと原作がシェイクスピア戯曲なので、どの役であっても役作りがしやすい、ということもあるんでしょうけど、それにしてもこういう脇役にいたるまでしっかりと「その役」を演じきれるのは、さすがはアメリカン・バレエ・シアターだ、と言っていいでしょう。
 随所に登場するチャンバラ・シーンも(ほぼ)音楽のリズムにちゃんと合わせて撃ち合っていて、音楽とアクションが一体化しているのは観ていてとても気持ちが良い。街のはすっぱな女たちもそれぞれに個性があって魅力的だし、そんなこんなのディティールをしっかりと積み重ねてこそはじめて「良家の子女の許されざる恋」というファンタジーが、現代の表現として成立するのでしょう。
 
 ただ、第三幕はいささかひっかかりました。ジュリエットは自分の寝室と教会を瞬時に行き来しますし(ロミオとの関係がバレたあとでそんなに容易に動き回れるはずもないでしょ)、擬死のクスリを飲んで墓所に安置され、ロミオが絶望し自らも毒薬を飲んでしまいますが、あそこはむしろ短剣を使う方が絵的にも良いのでは(ジュリエット自身、死を偽装するためにクスリを使っていますから、ただロミオが倒れているだけでは、彼女はこれもまた擬死だと考えてしまう可能性だってあるはず。つい今しがた目覚めたばかりのジュリエットが、目前のロミオの死を瞬時に理解するには、剣を刺し血を流している姿を目の当たりにする方がわかりやすいし、そのあと自らも剣を取って自害するのだから、同じ死に方を選ぶというドラマ性もより高まるはず)。
 さらに気になったのは、悲劇の死の後にあるべきはずの「両家の和解」がまるごとカットされていたこと。それぞれの親が折り重なるふたりの遺体を発見して、自らの愚かさを覚り和解することでようやく、ロミオとジュリエットの心中に意味がでてくると思うんですが、ジュリエットの自害で終わってしまっただけでは、このあと両家は悔い改めるのか、それとも真意をつかみ損なってますます抗争をエスカレートさせるのか、どっちの展開だって想像できちゃうわけで。それだとあまりに救いがない。悲劇は悲劇なりに、その先の「魂の救済」もきちんと描いてから終わって欲しかったなぁ、と思いました(求婚者のパリスもあっけなく死んでしまうし、なんだか彼はあまりに不憫すぎ)。
 
 …という演出・構成上の疑問はさて措き、ジュリエット役のナターリヤ・オーシポワは実にすばらしかったです。特に第三幕、彼女はほぼ全部「死体」として登場するんですが、悲嘆に暮れるロミオと「死体」としてのジュリエットとのデュエットは、文字通りこの世のものとは思えないダンス。力がどこにも入ってないように見せる、というのは非常に高度な技術を要すると思うんですが、あの場面はまさに物語のクライマックスにふさわしい、もの悲しくも美しいバレエでありました。
 

2011 07 31 [dance around] | permalink このエントリーをはてなブックマークに追加

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