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モホイ=ナジとハンガリー
●視覚の実験室 モホイ=ナジ/イン・モーション
神奈川県立美術館 葉山 2011年04月16日〜07月10日
京都国立近代美術館 2011年07月20日〜09月04日
DIC川村記念美術館 2011年09月17日〜12月11日
“MOHOLY-NAGY”のカタカナ書きは、かつては<モホリ=ナギ>と表記されてた記憶があるんですが、今は<モホイ=ナジ>が一般的なのか。マジャール語音では<モホイ=ナジュ>と書くのがもっとも近いという話もあれば、当の本人自身がドイツ移住後<モホリ>と発音していた、という話もあったりするなど(いずれも井口壽乃『ハンガリー・アヴァンギャルド MAとモホイ=ナジ』彩流社、2000年より)この手の「カタカナ表記」にはどうしたってゆらぎがつきものではありますね。
モホイ=ナジ・ラースローは1895年生まれ。ハンガリーでは日本と同じく姓ー名表記なので、ラースローが名前です。「ナジ」は彼が二歳の時に失踪した父親に代わり後見人となった叔父の姓から、「モホイ」は出身地の「モホル村」から取っているとのこと。第一次大戦に従軍するも負傷と伝染病で陸軍病院に長期入院を余儀なくせられ、ここで絵を描き始めたことが彼の人生を決定づけます。
およそ20世紀初頭の前衛芸術運動は、二つの世界大戦と無縁ではあり得ません。時の体制に積極的に関わった例もあればあくまで抵抗を貫いた例までさまざまですが、なかでもハンガリーの場合は、自国の革命も含んで紆余曲折が特に激しいものでした。
第一次大戦後にオーストリア=ハンガリー二重帝国が解体し、領土も人民も一気に縮小したことを受けて、かの国では1918年から19年にかけての二つの革命が起こります。モホイ=ナジも参加していたアヴァンギャルド派が取り入ろうとしていたソヴィエト型の共産主義体制は、けれども民衆の支持を得ることなく短命に終わり、19年8月に王政が復古するに至って多くの亡命者を産みだしました。若きラースローもこのときウィーン経由でベルリンに逃げ、やがてワイマールに創設されたバウハウスで教師として活躍しますが、ナチ党の台頭以後はアムステルダム→ロンドン→シカゴと移り住み、ついにふたたび祖国の土を踏むことなく51歳でその生涯を終えています。
マドリードでの公演中にロシア革命が勃発し、故郷に戻ることができなくなったディアギレフ率いるバレエ・リュス一行や、<故国にあって悲しき者>という意味の名前に改名し、のちに母語であるルーマニア語までをも捨ててしまったトリスタン・ツァラをはじめ、同時代に祖国を喪い(あるいは、捨てて)国外で名を成したアーティストは枚挙に暇がありませんが、モホイ=ナジもまた、生まれ育った国を出たのちに功成り名を遂げた人でした。その経歴から、わたしはモホイ=ナジをこれまで特にハンガリーと結びつけて考えたことはなかったんですが、そんな先入観が大いに間違っていたことが、今回の展覧会を通じて教えられたのでした。
たとえば、本展図録の巻頭に、長女ハトゥラさんのエッセイが載っています。それによると、シカゴに移住した最晩年でも故郷のことをけして忘れてはいなかったそうです。
モホイ=ナジは、心からアメリカ合衆国での暮らしを享受していました。自分の妻子が、第二次世界大戦による殺戮や破壊から逃れた国で暮らせる、その幸せをかみしめていたのです。けれども、ハンガリー情勢について興味や関心を失うことも決してありませんでした。アメリカ国内に住むハンガリー人たちとは常に連絡を取り合い、何年にもわたって、ハンガリー系アメリカ人民主主義評議会(HACD)の会長を務めました。(中略)血気盛んな集団でした。「お互い、ハンガリー語で怒鳴り合ってるのが聞こえました」と、当時教師のひとりだったマイロン・コズマンは回想しています。(ハトゥラ・モホイ=ナジ『回想録 シカゴのモホイ=ナジ』林寿美訳、p.26)
ちなみに、1937年に渡米した彼が米国籍を取得したのは1946年4月。白血病で亡くなる半年ほど前のことでした。
またたとえば、展覧会場では、モホイ=ナジの作った映像作品が何本も上映されていますが、なかでもわたしが惹かれたのはそのうちのひとつ、『Gross-Stadt Zigeuner(大都会のジプシー)』(1932年製作、34年公開)。この映画はベルリンで撮影されたとのことですが、おそらくモホイ=ナジは、彼らジプシーの姿を通して、遙けき故郷ハンガリーの村々を観ていたのではないかと思います。この映画については会場でも図録でも特に詳しい解説はなかったのですが、なにより愛情に満ちたカメラアングルが全てを物語ってるように、わたしには感じられました。
それにしてもこの映画、サイレントなので音は一切ありませんが、後半の音楽とダンスの場面がまことに圧巻のひとこと。YouTubeにダイジェスト版がアップされていたので紹介しておきます。
↑の映像は、実はものすごくはしょられてます。オリジナル版は11分間の映画で、先にも書いたように特に後半がすばらしいです。ちなみにこの作品をはじめ、会場で上映されている映画はDVDとして売店でも販売されてますが、1タイトルにつき1万円近くもするので、できれば会場で全部観てしまうのがいいでしょう(とか言いつつ、わたしはこのDVDだけ意を決して購入してしまいましたが)。ともあれ、着々とナチ化が進んでいく状況下(たとえば32年9月にはバウハウス・デッサウ校が閉鎖)での、大都会ベルリンのジプシーの日常や喧噪ぶりが記録されているだけでもたいへん貴重な映像でしょうし、あるいは、記録映画というわりにはフィドルを弾く男たちや踊る女たちを思い切り見上げて撮ったカットなど撮影技法というか演出が凝っていて、このへんはたとえばかのトニー・ガトリフ監督の名作『ラッチョ・ドローム』(1993年)あたりを彷彿とさせます(そういえば、あの映画にも同じような極端な仰視カットがところどころ挿入されてますね。んでもって、モホイ=ナジ映画のDVD版には、オリジナル版にはなかったはずの音楽が付加されてたのに驚きました。しかも冒頭の曲は『ラッチョ・ドローム』にも採用されていたメロディだったりするし)。
若くしてハンガリーから脱出したモホイ=ナジ・ラースローは、それでも(あるいは、それだからこそ)終生ふるさとハンガリーを見捨てることはなかった。そのことを確認できただけでも、この展覧会に来た甲斐があったなあ、と思いました。彼を含め近現代芸術における「グローバル化」と「ナショナリズム」の問題は、一筋縄で理解できるものでもなければ短絡的に諒解して良いものでもなく、個別の問題として考え続けていくべきものなのでしょう。
そしてまた、現代美術におけるテクノロジーと手仕事の関係についても、いろいろと考えさせられた展覧会でもありました。
モホイ=ナジは従軍時代に葉書にスケッチしていた作風からはもはや遠く離れた場所に立っている。モホイ=ナジの関心は、内面の表出としての芸術作品ではなく、科学技術をどのように美術のなかへと組み込んでいくか、造形的探究がいかなる視覚的効果を生むかに向いていた。
モホイ=ナジのバラエティに富む活動のなかで鍵となるのはやはりカメラであろう。モホイ=ナジはカメラにたんなる記録装置以上の可能性を見ていた。バウハウス時代にモホリ=ナジは『絵画・写真・映画』という「教科書」を執筆しているが、論考の力点は「写真」や「映画」にあり、「絵画」それ自体にはない。「伝統的な絵は歴史的となり、終わっている」とはっきり告げている。あるいは別の著作のなかでも「手の絵画はその歴史的な重要性を守るだろう。が、おそかれ早かれその独占を失うだろう」(『ザ・ニュー・ヴィジョン』)と語っている。 (『移動の人、モホイ=ナジ』text by yasushi sato、2011年、capriciu)
わたしは、展覧会の最初と最後に置かれた彼の「手描きのスケッチ」を、会場を行ったり来たりしながら何度も見較べていました。おそらく病床にあって描かれた最晩年の素描は、なるほど軍隊時代のデッサンとはまったく異なるものですし、それ自体が完成された作品というよりはあくまで習作としてのスケッチではあるのでしょう。
けれども、そこに遺された描線の伸びやかさ、シンプルな線のうちに表現された「意志の確かさ」は、まさしくこの作家の“成熟”をあらわすものではありますまいか。<モダン・アートの先駆者>の称号にふさわしく、当時の最先端の技術を積極的に用いたモホイ=ナジは、しかし最期まで伝統的な意味での職人的な画家としても生きたのではないか、わたしにはそう思えてならないのです。
2011 07 24 [design conscious] | permalink
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