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ベン・シャーンは視線を逸らす

 
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●ベン・シャーン クロスメディア・アーティスト
 ―写真・絵画・グラフィック・アート―

2011年12月03日~2012年01月29日 神奈川県立近代美術館 葉山
2012年02月11日~03月25日 名古屋市美術館
2012年04月08日~05月20日 岡山県立美術館
2012年06月03日~07月16日 福島県立美術館
 
 ベン・シャーンをナマで観るのはずいぶん久しぶり。日本での大規模な回顧展じたい、1970年/1991年に次いで三度目だそうだが、70年はもちろん、91年展もじつは観に行けなかった。気軽に行ける範囲内での開催がなかったから、と記憶してるがどうだったかな。その直後だったか、版画家浅野竹二との二人展のような企画展をどこかで観た覚えがある。小さい会場でもあって専用の図録などなかったから、売店で市販の薄い画集を買い求め、以後ずっとその一冊を眺めていた。2006年だか07年だったか、「ラッキー・ドラゴン」シリーズの作品をもとにつくられた絵本『ここが家だ』(構成・文/アーサー・ビナード、集英社)を手に入れた。これらの作品もいつかオリジナルを観たいなあ、と思っていたら待望の回顧展だ。今回も近畿圏は会場からハズされていたのがどうにも納得できないが、ここで文句を言ってもしょうがない。というわけで、電車に乗って名古屋まで行ってきました。
 
 という個人的なあれこれはさておき、ベン・シャーンが写真を大量に撮っていたこと、絵画作品の多くもその写真から(あるいは新聞や雑誌の報道写真から)材を得ていたことなどは、今回はじめて知った。自ら撮影したショットはもちろんだが、他人の撮った写真でもそれを絵にするかどうかのセレクトは作家自身だから、ベン・シャーンが何を見たか(あるいは見たかったか)が写真と絵画を見較べることによってよりわかりやすくなっている。
 1Fと2Fに分かれた会場をざっと一巡し、ふたたび1Fに降りてもういちど最初から見直し…をくり返しているうちに、ちょっと奇妙なことに気がついた。ベン・シャーンの絵の中の人物、その多くは目線を合わせていないのだ。画面に複数描かれている人物同士は見つめ合ったりしてないし、一人だけしか描かれてない場合でも、観客であるこちら側をまっすぐ見ていることはない。
 もちろん例外も多くあったし、たまたま今回の出品作にそういう傾向のが少し多めに含まれていただけかもしれない。だから大上段に「ベン・シャーンの特徴はこれだ」などと断じるつもりはない。にしても、そういうつもりで作品群を見直してみると、なかなか興味深かった。

 
Kaihou 一例を挙げる。左は『解放』1945年の作で、第二次世界大戦中にドイツに占領されていたフランスが解放されたという報を聞いて描かれたものだという。戦争の爪痕も生々しい風景の中で、三人の女の子がブランコで遊んでいる。「解放」という題名にもかかわらず、彼女たちは一切喜びの表情を浮かべていないし(むしろその逆で、なにかに怯えているかのような凍り付いた表情である)、生の喜びというより死者たちが遊んでいるかのようにも見える絵だ。ひとりは後ろ姿、ひとりは横向きで地面を見つめている。残るもう一人がまっすぐ正面を向いているのだが、持っていた画集では、彼女はこちら——つまりこの絵を眺めている観客を見ているものだとばかり思っていた。が、実物に接してみると、どうもそうでもないようだ。彼女の視線の先は、こちらではなくそのもっと手前にあるのではないか。つまり、右端の横顔の少女と同じく、ただ地面を見つめているだけのように思える。
Willis_ave_bridge こちらはもっとわかりやすい。『ウィリス・アヴェニュー橋』1940年。ほぼ同じ構図の写真が残っていて、画家がそれを参考に描いたのは一目瞭然だ。登場するふたりはおそらく夫婦なのだろうが、たがいにそっぽを向いている。見つめ合うのでも、同じ方向を見ているのでもない。それぞれが自分の世界に閉じて物思いにふけっているかのようだ。作品中のお互いはもとより、この絵を見ているわたしたちにもまるで関心がなさそうに見える。この作品のもとになったスナップ写真もこのように横を向いていたから、作家の意図は最初から明確だったのだろう。
 ベン・シャーンの写真の撮り方はいっぷう変わっていたらしい。本展に合わせてベン・シャーン特集を組んだ『芸術新潮』2012年1月号の記事によれば、かれは「ライトアングル・ファインダー」という特殊なファインダーをライカに取り付けて撮影していたとのこと。これは、正面を撮っているように見せかけて実は真横の被写体が撮影できるという、スパイの隠し撮りみたいなことが可能なんだそうだ。そうすることによって、被写体のより素顔に近い一瞬を切り取っていたのだろう。ベンチに腰掛けているふたりも、おそらくそうやって撮影されたものだと思われる。
 
 あるいは『縄とびをする少女』(1943)。新聞か雑誌からの切り抜き写真と、ベン・シャーンが撮影した写真2枚(ひとつは背景に使われた廃墟の写真、もうひとつは遊んでいる男の子の集団)を組み合わせて一枚の絵にしているが、少年の方は画面左に後ろ向きに配置され、主役の少女はこちら向きだが縄とびに一所懸命で回りのことなど一切眼中にない、という表情だ。
 またあるいは『ピーターと狼』(1944)。ブルーの背景に二人の少年が向きあって立っているだけのシンプルな構図で、ようやく向きあった人物像があった、とよく見たら、なんとふたりともお面を被っているのだった。
 またまたあるいは、若いころの和田誠を感動させたというポスター『We Want Peace』(1946)。赤いシャツを着た男の子がこちらに向かって手を差し出そうとしているポーズだが、この絵でも彼の眼はどこを見ているかわからない、というより生きている人間の表情なのかどうかさえあやふやだ…
 目は口ほどになんとやらで、肖像画などではその目の描き方が特に重要になってくるはずだ。なのにベン・シャーンの描く人物は、多くはその目がうつろであったり、どこかあらぬ方角を向いていたりするのだ。
 
Eye_1
Eye_2 写真をもとにした絵画作品をもうひとつだけ。画像上は1945年作の『友達の写真屋』の、顔の部分だけをトリミングしたもの。下はそのもととなった写真で、1938年にオハイオ州で撮影されたもの。同じくトリミングして掲載する。
 もと写真の人物は撮影者=観客を見ているのだが、絵画作品の方ではその視線は少しだけ外されている。むしろ目を合わせるのを避けているかのようにさえ思える。意識的か無意識かわからないが、画家はあきらかに人物と目を合わせないように描いているのだ。写真屋が売っている小さなポートレート群は絵の中に忠実に再現されていて、どれもしっかりこちらを見ているものばかりなので、主役が目を逸らしているのが余計に際立つ。これはいったいどういうわけだろう。
 
 こういった傾向は1940年代の作品に特に顕著だった。30年代以前、あるいは50年代以降の絵だとまっすぐこちらを向いている絵も少なくない。この頃のベン・シャーンについて、図録の年表を読んでも実はよくわからない。30年代には大恐慌、40年代は第二次世界大戦と、不安定な時代状況が続いていたことが作風に大きな影響を与えていただろうことは容易に想像できるものの、なぜ上記のような傾向が40年代の作品に顕著なのか。あるいは本当に「たまたま」今回の出品作がそうだった、というオチなのか——不安な時代ならばこそ、むしろ連帯を求める強い眼差しを具えた人物を描き続ける、という方向だってあり得たはずだし——実際、たとえば『We Want Peace』は労働者階級に向けて選挙人登録を促すポスターである——いずれにせよ、この時代のベン・シャーンをもっといろいろ観たくなったのは確かだ。画集を探してもいいんだけど、できればやっぱり実物がいいなあ。また何年後かに展覧会をやってくれないかしら。
 

2012 03 04 [design conscious] | permalink このエントリーをはてなブックマークに追加

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