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カルロス・サウラの『フラメンコ・フラメンコ』

 
Flamenco_flamenco
●フラメンコ・フラメンコ
 2010年スペイン映画/カルロス・サウラ監督/出演:サラ・バラス、パコ・デ・ルシア、マノロ・サン ルーカル他
  
 上の写真、右が本作のパンフレットで、左は同じ監督の旧作品『フラメンコ』日本版DVD(発売元:IMAGICA IMBC-0060)。
 『フラメンコ』の方は1995年公開作品。つまり、実に15年後の続編ということになる。ふつう、どんな<ヒット作の続編>だって、これくらい間があいてしまえば(往年の人気ロックバンドの再結成じゃないけど)「続きなんて見たくなかった」「夢をもういちど、というのはわかるんだけどねえ」という風な、ちょっと残念な感じになってしまうことが少なくないと思う。しかし、そこはさすがサウラ監督、実に堂々たる完成度に仕上がっている。それ以上に驚いたのが、この機会に久しぶりに旧作を見直してみたところ、15年前の映画が全く古びていないことだったりもするんだけど。
 

 
 オープニングとエンディングで撮影場所の大きなスタジオをゆっくり映し、本編は当代のベテランと若手を織り交ぜながら濃密なうたと演奏とダンスをたっぷり盛り込むという構成は二作とも同じ。けれども今回のはより緻密に、よりダイナミックに、そしてより美しい映像化となっていて、制作がわの凄みというか覚悟を感じる。映画館にいるあいだ、なんど思わず歓声をあげそうになったことだろう。
 15年前の舞台装置は鏡と無地のスクリーンのみ、あとは黒光りする床と演奏家が座る椅子だけという非常にシンプルなものだった。本作でも基本的にはその継承なんだけど、大きなスクリーンパネルにはフラメンコを描いたたくさんの絵画作品が描かれているのがまず目を惹く。それは時に背景になり、あるいはミュージシャンを囲む小部屋になり、また時には出演者を遮る紗幕となって、絵の中の登場人物がそのまま抜け出てきたかのような一体感をもたらす。
 
 舞台で観るフラメンコのようでそうではない、バルで楽しむフラメンコとも違う、映画ならではの計算された作り込みが素敵だ。カメラの目はぐっと引いたかと思えば出演者の息づかいや体臭さえ感じさせそうなほど近くに寄る。演奏者を舐めるように通り過ぎるかと思えば、ここぞというときの踊り手の一瞬の目の動きを逃さない。
 じっさい、どういう風に撮影しているんだろう? 前作でも鏡を多用したシーンなどで不思議に思ったんだけど、今回も画面には撮影舞台裏を匂わせるような余計なものは一切映さない(エンディングでぐんぐんカメラが引いていく途中でマイクスタンドが映った程度だ)から、映像の中の世界にたっぷり浸りきることができる。
 この素晴らしいカメラワークは「ダンスの映像化」のひとつの極北と言っていいんじゃないか。真上や真下から撮ってみましたという風な奇抜なアングルや、バカみたいに目まぐるしく切り替わるカットバックなんかは一切出てこない。出演している音楽家や舞踊家の誰もがみな、そんじょそこらの俳優以上にドラマティックな肉体と表情を持っているからこそ、カメラが奇妙に動きすぎる演出を加える必要など、どこにもないのだ。
 本作には、そういえばナレーションもない。前作では冒頭に「フラメンコとは」云々の短いナレーションがあったが、もうそんな説明すら必要ないということか。理屈じゃないんだ、言葉で語る前にまずこのうたを聴け。この踊りを観ろ。監督の意図はそういうことなんだろう。それはすなわち「フラメンコ」に対する絶対的な信頼と愛情の証でもある。
 
 映画ならでは、というシーンはいくつもあるんだけど、特に印象に残ったのが18曲目の<Canció De Cuna 子守歌>。登場するのは歌手のミゲル・ポベタと踊り手のエバ・ジェルバブエナ。広いスタジオ一面にどしゃぶりの雨を降らせ、そこでずぶ濡れの二人が絡み合うように歌い、踊る。濡れた肢体を、カメラはうんと接近して撮影する。エバの腕や髪からしたたる水しぶきが本当に神々しい。題名通り子供を寝かしつけるうたでありながら、演じられたのは抜き差しならぬ男女の情感を思わせる、たいへんスリリングな一幕だった。
 そうでなくともフラメンコは観る者の心をぎゅっとわしづかみにする術に長けている。監督はその魅力を、映画ならではの手法でさらに増幅させる。かと思えばラストのブレリアのように、ごく親しいもの同士のうちとけたフェスタのような、人なつこくも軽やかなフラメンコも映像化してしまう。うたのあいだにいきなり立ち上がり、踊り始めるばあさんたちの立ち振る舞いの、あのなんとも幸せそうな顔つきはどうだろう。若くて技術的にもすぐれた演奏家たちには逆立ちしてもかないそうにない、長い人生をここまで生きてきたものだけが持つ年輪とか成熟が、そこかしこに匂い立つようなショットだった。
 
 もとよりこの映画には、起承転結なストーリーもなければ勧善懲悪な物語もない。人生の不条理や愛情の辛さ苦しみ哀しみが、それぞれのうたの中で、ただただ切なく語られるだけだ。それでいて、このエンディングでばあさんたちのもはや足元も覚束ないダンスを見せられると、ああ、いろいろあっても生きていくって素晴らしいんだな、と素直に感動してしまう。叶うことなら年を重ねてこんな年寄りになってみたいものだなと、しみじみ思う。
 わたしが好きなアイリッシュ・ダンス方面にも、ふだんは杖がなくては立ってられないほどだが音楽が始まるととたんにしゃきっとなって踊り出す、というひとがいたことを思い出す。日々の生活に寄り添いその人の人生と共にあったダンスや音楽には、時としてそういうチカラを生み出すことがあるのだ。そんなことも思い出しつつ、この映画のラスト・シークエンスを観ながら、わたしは劇場の暗闇の中ではほとんど泣きそうになっていた。今年は年始からたくさんの「ダンス映画」を観るべく足繁く映画館に通ったけど、わたしにとってはこの映画こそが最高の一作だったと、ここで言い切ってしまいたい。
 

2012 03 20 [dance around] | permalink このエントリーをはてなブックマークに追加

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