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曾我蕭白の“過剰”

Shohaku
蕭白ショック!! 曾我蕭白と京の画家たち
2012年04月10日〜05月20日 千葉市美術館
2012年06月02日〜07月08日 三重県立美術館

 2005年に京都国立博物館で開かれた『曾我蕭白 無頼という愉悦』展のキャッチコピーは「円山応挙が、なんぼのもんぢゃ!」というものだった。今回の蕭白展にはでかでかと「蕭白ショック!!」とあって、また今回も暑苦しいコピーを付けたもんだなあと苦笑していたら、コピーではなく、なんと、正式な展覧会のタイトルだったようだ。な、なんなんだ、それ。
 
 しかしこの暑苦しさこそが、曾我蕭白らしいと言えなくもない。暑苦しいというか、なんか「やり過ぎ感」があるというか。
 蕭白は、伊藤若冲や長沢蘆雪あたりと並べて、辻惟雄さん命名による<奇想の系譜>の中にひとまとめにされることも多いけど(実際、両者は本展にも展示されていた)、このひとの場合<奇想>というより<過剰>と呼ぶ方がしっくり来る気がする。そう、蕭白って、なにかと過剰だと思うのだ。
 
 曾我蕭白(1730〜81)は生まれた時も死ぬときも京都にいたから京の絵師という扱いで、いやそれはもちろん間違ってはいないのだけれども、実は画家としてのキャリアの半分は、播州高砂や伊勢を行ったり来たりしていたらしい。そのためかつては伊勢出身の画家とみなされていたこともある。記録に残る彼の最古の作品は29歳頃(作品そのものは残っていない)、京に腰を据えるのは四十を過ぎてから。51歳で亡くなっているから、遍歴時代の30代と京都時代の40代、とざっくり分けられる。本展の会場となった三重県立美術館は蕭白前半生ゆかりの地、ということで展示品の目玉のひとつは伊勢斎宮の旧家永島家に遺された44面もの襖絵群だ。普通の襖として生活の中で長く使用されていたので痛みが激しく、最近ようやく修復が完了したので今回はじめて全作品が一挙公開とあいなったそうだ。
 05年の京博展を企画した狩野博幸さんによれば、蕭白というひとはなかなかに過酷な運命を生きた人だった。商家(狩野さんの推測では紺屋ではないかとのこと)に生まれ育ったが11歳で兄を、14歳で父を、そして17歳で母を亡くしている。そこから画家として名のりを挙げる29歳までをどう過ごしていたのか不明だが、その後も十年以上も長い旅を繰り返していたことを考えると、京にぬくぬくと暮らしていくのはかなり厳しかったのだろう。高砂にしろ伊勢にしろなんらかの伝手があっての訪問だったろうが、そのとき「京の都から来た画家」を看板に掲げていたことはじゅうぶん考えられる。実際にみやこで通用していたかどうかはこの場合問題ではない。ハッタリだろうがなんだろうが、ちょっとでも自分を高く売れるとなれば誰だってそうするだろう。要するに、彼の絵は生きるために必死になって描かれたものだったのだ(この点、同じように<奇想>の人と呼ばれる伊藤若冲(1716〜1800)あたりとはまるで境遇が違う。少なくとも若冲は生涯食うに困ることはなかったはずだ)。
 
 旧永島家伝来の襖絵を眺めていると、画題が見事にそれぞれ異なるのが目を引く。もちろん注文に応じて描かれたものだろうが、山水図から中国の故事に因んだ竹林の七賢人図、禽獣図など幅広い。得手不得手はあっただろうが、それでも、彼は注文を受ければ何でも描いた。そうでなくては生きていけなかったからだ。
 蕭白の過剰さは、ここに由来しているのではないかと思う。「なにもそこまでしなくても」というほどのサービス精神で画面を構成する。旧永島家屏風でいうとたとえば《竹林七賢図襖(1746年頃)》。ふつう竹林の七賢人といえば浮世離れした七賢人が談論風発、のんきに議論を交わしている図が一般的だが、蕭白は彼らの後日談を描く。すなわち、七人のうちふたりが仲違いして袂を分かつ場面を描くのだ。そういう場面を画題に選ぶのもなかなかヒネているが、注目すべきは彼らの表情。八面の襖の右端二面に五人の賢人、そのうち三人は我関せずで議論にふけっている。二人は今まさに出立しようとする者を見送ろうとしているのだろう、しかしその表情はどこか覚めているというか、むしろ出て行く者をあざわらっているかのように見える。旅装を整え庵から出て行く一人は後ろ姿で表情は見えない。そして残るもう一人は、八面襖のいちばん左端に従者とともに立ちすくんでいる。雪がしんしんと降っていて、彼の編み笠はすでに雪が重い。彼は両手で顔を覆わんばかりで、この別れを嘆き悲しんでいる。右から順に画面を眺めていって、左端(実際は4面目が部屋の角になるからそこで直角に曲がる)の彼の顔を見、ふたたび最初の五人を見直すと、その表情や態度のあまりの違いに思わず胸を撃たれる。なんてドラマティックな構成なんだろう。ていうか、「普通に生活する場」のための襖絵になんでここまで演出過剰な絵を。いや、それを言うならこういう絵を受け入れて「普通に生活」していた旧永島家ってのも相当なんだけど。
 あるいはたとえば、六曲一双の《波濤鷹鶴図屏風》。葛飾北斎が参考にしたのではないか、とも言われている激しい波濤の上空では、鷹が一羽の鶴を今まさに捕らえようとしている。追う鷹のドヤ顔と、逃げる鶴の絶望的な表情の対比の鮮やかなことといったら。もはやこれは動物の顔ではない。擬人化というにもあまりに生々しいリアリティがある。
 
 蕭白の絵は人間であれ鳥獣であれ、その表情が見どころのひとつだ。時にすっとぼけていたり時に情けなかったり、観ていてとても面白い。題材が古典的なものであっても、そういう表情のおかげで過剰にドラマティックになったりする。
 イマ風に言えば「関西ノリのコテコテ」。それが曾我蕭白だ。これでもかと画面を演出する、その過剰さこそが蕭白の持ち味だ。そうしてそれは、絵を売って食べていかなくてはならなかったが故の戦略ではなかったか。
 
 
 2005年展のキャッチコピー「円山応挙が、なんぼのもんぢゃ!」からは、蕭白の反逆性というか反骨精神みたいなものが感じられる。しかし最近の説では、彼がことさら世間に反逆していたとは必ずしも言えないということになっているようだ。
 そもそも若冲はじめ<奇想>の画家があの時期の京に相次いで登場したのは何故だろう。中国など海外からの新しい潮流——芸術や学問などの文化的・思想的潮流は、封建体制を堅持する徳川幕府の目が光る江戸では受け入れられにくかった。より自由で尖った目新しさは、かわりに京でもてはやされた。若冲をはじめ、蕭白もまた、いちはやくその流れに乗ったひとりだったろう。京の都以外の土地で「京から来た画家」を標榜するからにはそういう流行の最先端を把握しておく必要があったろうし、時にはことさらオーバーに誇張して表現してみせる必要もあったかもしれない。蕭白の過剰さとは、詰まるところ、そういう必要性から生まれたものではないかと思う。
 

2012 07 08 [design conscious] | permalink このエントリーをはてなブックマークに追加

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