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田中一光 デザインの世界

 
Tanakaikko
●没後10周年 田中一光デザインの世界 ―創意の軌跡―
 2013年01月12日~03月10日 奈良県立美術館
 
 【カタログ】
 (写真左)奈良県立美術館蔵品図録第17集 田中一光作品篇
      2012年3月発行
 (写真右)「田中一光デザインの世界展」解説書
      2013年1月発行
 ※ともに装幀者名記載なし
 
 田中一光(1930-2002)は奈良市出身。その縁で、奈良県立美術館はこの人の作品を収集している。生前に本人から、そして没後も遺族から寄贈を受け、現在その数約290点ということだ。今回の展覧会はそれらの所蔵品を中心に、このたび新たに発掘され(おそらく)初公開となる学生時代の素描や油彩画など新資料を展示している。
 
 
 デザイン界で「田中一光」といえば教科書に載るくらいの偉人だ。たとえばイッセイ・ミヤケロフト、大阪の水族館・海遊館のロゴなど、ふだん何気なく見ているロゴやシンボルマークが彼の手に成るものだったりする。いち企業だけでなく、古くは大阪万博政府1号館の展示設計(1970年)やつくば科学万博(85年)、ならシルクロード博(88年)をはじめ多くの公的イベントにも関わっていた。さらにはフォントメーカーのモリサワと組んで写植書体までも開発している(『光朝』。現在はDTP用デジタルフォントとして発売。上の図録表紙の文字がそれ)。国内外のデザイン賞の受賞歴は枚挙に暇がない…のだけど、商業デザイナーという職業はどちらかというと黒子役というか、表だってその名前が出ることはほとんどない。イッセイ・ミヤケのロゴは、三宅一生という個人名と結びつくことはあっても、ロゴを作った田中一光と結びつくことはまずないのである。
 なので、よほど熱心に追いかけているマニアでないかぎり「田中一光の仕事」を逐一把握しているひとは、たとえ同業者でも、それほど多くないんじゃなかろうか。
 今回の展覧会は、そんな田中一光のデザイナー/アート・ディレクターとしての全貌を見せてくれるものだろうか、と期待して出かけた。その期待は半分は失望に終わり、しかしのこりの半分で、それまでまったく知らなかった別の面を見せてくれのだった。
 
 
 
 「商業デザイナー・田中一光」の業績として展示されているのは、有名な『サンケイ観世能』シリーズをはじめとする、イベント告知のための各種ポスター群。美術の教科書や日本デザイン史の参考図書には必ずと言っていいほど掲載されるポスターがいくつも飾られていて、それはそれで見応えがあるんだけど、しかしこれじゃただのポスター作家にしか見えない。無印良品のコンサルタントを担当したとか、先にあげた多くの博覧会関係だとか、あるいは雑誌・書籍方面のディレクションだとか、コマーシャル・クリエイターとして他にも大きな仕事をたくさん成し遂げていたはずなのに、そういった面がほとんどスルーされているのだ。こりゃなんだかなあ、と思いながらいくつかの展示室を渡っていくと、やがてこれまで見たことがなかった作品群が待ち受けていた。
 
 
 それはクライアントや一般大衆のため、という「目的」をもたない、ごく個人的な要請のもとに制作された版画(多くはシルクスクリーン)群。かれはこれを「グラフィック・アート」と呼んでいたそうだが、それが展覧会のおよそ半分を占めているのだ。そのコーナーに差し掛かって、わたしはいきなりフリーズしてしまった。
 なんなんだろう、これ。
 
 「アート」と言うにはどこか中途半端な気がする。というか、一枚一枚の版画が、なにを言いたいのかさっぱり伝わってこないのだ。いや、いかにもデザイナーの仕事らしく画面構成や色遣いはバランス良く計算されているのだが、画面からはおよそ訴えかける「主張」がなにもない。あえていえば大らかなユーモアは感じるものの、それが作品の主題とは思えない(画面から醸し出されるユーモアは作者の個性ではあっても、作品そのもののテーマではない)。
 丸や三角といったごく基本的な図形や、縄を図案化したシンプルな描線のみで構成されている版画作品は、たとえば人間の感情や社会的な告発といったわかりやすい主題を持たない。好き嫌いや快・不快もない、なんともニュートラルな存在として、ただ「そこに在る」だけなのだ。
 あえて使用目的を考えるとすれば、病院の廊下や中流ホテルの客室になら飾れそうな、つまりは「メッセージを発しないことに意義がある」絵画。わたしにはそう思えた。
 上のような抽象的な一群だけでなく、花をモチーフにしたいくぶん具象的な連作など、展示作品にはいくつかのシリーズがあるのだが、個人的にいちばんわかりやすかったのは漢字をモチーフにしたシリーズだろうか。正方形の画面にそれぞれひとつの漢字が選ばれ、その文字の意味を独自に解釈しデザインしなおしたもので、かろうじてこれには面白みを感じた。西洋風の額縁ではなく、たとえば掛け軸に仕立て直して床の間に飾ったらさぞ洒落てるだろうな、と思った作品がいくつもあった(もし手頃な値段で販売されてたら買っていたかもしれない)。
 しかし、それ以外の「グラフィック・アート」は、好きとも嫌いとも言えない、なんとも「よくわからない作品」ばかりだった。
 いや、そもそもこれは「作品」なんだろうか。スケッチというか落書きというか、思いついた図形をただカタチにしてみました、という類ではないのか。とはいえ、たとえ単なる思いつきであっても、それをわざわざシルクスクリーンという「作品」に仕上げているということは、本人にとってはそれなりに意味のある表現行為なはずなのだが…。
 とりあえず、会場でのわたしは、「これは<デザイナー>としての語彙、デザインのボキャブラリーを増やすための発語訓練に違いない」と、そんなふうに結論づけた。目の前にあるわけのわからないモノを、とにもかくにも自分なりに意味づけないと、いつまでたってもこの場から去れないからだ。
 
 
 
 会場の最後の部屋は、今回新発見という、若き日の田中一光のデッサンや油彩画、子供のころの習字などが集められている。奈良の実家から発見されたものとかではなく、いずれも大人になってから死ぬまで大切に手元に保管していたものだという。「尋三 田中一光」と署名が入っている習字に至っては、立派な掛け軸に仕立て上げられているのだ。「尋三」ってことはえーと「尋常小学校三年」ってこと? ってーことは小学生時代のお習字を掛け軸にして終生大切に保存していたってこと? えええ? どんだけ「自分大好き」だったんだこの人はぁ!?
 同じ部屋には田中一光の年譜も展示されていて、それを読んでいるうちに、さきの「グラフィック・アート」について少しばかり合点がいった。1950年に京都美術専門学校を卒業後、鐘淵紡績に入社。テキスタル・デザイナーとして当時最新のパリ・モードに触れるなど刺激的な毎日を送っていたのだが、

(前略)恵まれた仕事環境も世情不安の影響から人員整理の対象となり1952年の夏に事実上の解雇となる。失意の中(中略)で出会った朝日会館の吉原治良デザインの緞帳は田中一光に深い感銘を与えた。(「田中一光略年譜」解説書p.09)

 吉原治良といえば「具体美術協会」の中心人物で当時の関西アート・シーンのみならず世界的な評価も高い前衛画家だ。数年のちに吉原本人にも会うのだが、その出会いは<生涯にただ一人「師」と呼べる人との巡り会い(同上)>だったという。
 ああ、なるほど。田中一光のバックボーンは「具体」だったのか。
 そう思ってもういちど前の展示室に戻ってみると、なるほど、たとえば同じ具体出身の画家、元永定正あたりの作品とどこか通じるものがあるような気がする。のちに元永が田中のことを<形の違う具体の生き残りの一人>と評したのもうなずける。そうか。田中一光の「グラフィック・アート」は、彼なりの「具体」だったのか。
 
 
 田中一光は、一方で一流企業や大規模プロジェクトを相手に、大衆消費社会と闘うデザイナーとしての顔を持ち、一方でまったく個人的な要請に閉じこもった「アート」をつくり続けた、そんな人だった。横尾忠則のように、ある時点で「デザイナー」をやめて「芸術家」に転身したのではない。オモテ稼業としてはあくまで<世界的なグラフィック・デザイナー>として活躍しつつ、そのバランスをとるかのように、きわめて純粋な<造形作家>でもあり続けたのだ。ひとりの人間として、その配分のとりかたはちょっと想像しづらい。それはたとえば「平日は営業マン、休日は鉄オタとして生きる」というふうな、<社会人とオタクとしての住み分け>だったのだろうか。そうとも言えるのかもしれないし、まったくの的外れなのかもしれない。わたしにはそのあたりがまったく想像がつかないのである。
 
 田中いわく<グラフィック・アートの制作は、デザインで汚染された頭の中を真っ白にしてくれる>という。だが「汚染」とまで言いながらも、彼は決して商業デザインから離れることはなかった。「純粋芸術家」と「商業デザイナー」の狭間で、あるいは複雑な思いを抱いていたのかもしれないが、もちろんその本心は知る由もない。
 あらためて思うに、彼の創った「グラフィック・アート」が「なにも主張していない」のは、たぶん、本業の商業デザインでは「主張」がなによりも強く求められた、その反動なのかもしれない。費用対効果や観客動員数など、「デザイン」の世界では真っ先に数字が求められる。だからこそ、彼は別の場所で「何も求めない」創作世界を必要としていたのではなかったか。そうして<真っ白になった頭の中>は、次の瞬間には、かれが「汚染」と呼ぶ<デザイン>の世界へ瞬く間に舞い戻れたのではなかろうか。長年にわたりコマーシャルのトップランナーとして、第一線を疾走し続けるクリエイターとして、それはどうしても必要な作業だったのではなかろうか——。
 
 ——などと、いくら勝手な想像をしていても、わからないものはわからない。なにより没後10年ていどでは、まだまだ公表できない事実関係も多いことだろう。この作家の真の評価は、このあと50年後、あるいは100年後にならないと確定しないかもしれない。奈良県立美術館が今後も田中一光の<人と作品>を追い続け、新たな資料を展示し続けてくれることを願うばかりである。
 

2013 01 14 [design conscious] | permalink このエントリーをはてなブックマークに追加

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