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「知られざるミュシャ」展
●知られざるミュシャ展—故国モラヴィアと栄光のパリ—
京都展 2013年03月01日〜03月31日 美術館「えき」KYOTO
広島展 2013年04月06日〜07月15日 海の見える杜美術館
福井展 2013年07月20日〜09月01日 福井市美術館
愛知展 2013年09月07日〜10月14日 松坂屋美術館
横浜展 2013年10月19日〜12月01日 そごう美術館
【展覧会図録】
監修・執筆 マルタ・シルヴェストロヴァー
図録編集協力・執筆 千足伸行
発行 MBS
装幀者名記載なし
ミュシャの人気は根強い。展覧会もしょっちゅう行われてる気がする。わたしがこのブログを始めてからでもすでに2度、触れている。
→ムハとミュシャ(2006年1月)
→またまたミュシャ展(2006年9月)
前者は2004年から2006年にかけて開かれた、かなり大規模な回顧展の感想。後者は2006年から翌07年に行われた、いくぶんコンパクトな展覧会だった。本展はどちらかというと後者の内容に近い(しょっちゅうと書いたけど、それなりに年月が経ってますな。まあ、単にわたしが見ていないだけでこの間にも大小さまざまな展覧会があったはずですが)。
京都駅ビル内、JR京都伊勢丹にある<美術館「えき」KYOTO>でミュシャを観るのは、06年秋に続いて2度目だ。前回もやれ狭いだの出品されてない作品が多いだのと、さんざ文句を書いた。今回も展示品目の数に対してスペースにあまり余裕がなく、ぎゅうぎゅうに詰め込まれた印象は拭えない。ターミナル駅なんで交通の便では不満はないんだが、これでせめてあと1.5倍くらい広けりゃねえ。伊勢丹さん、次に改装するときにはスペースをもうちょい広げてくれませんかねえ…。
…そんなことはともかく。
ミュシャといえば「パリ世紀末、アール・ヌーヴォーを代表するポスター作家」というイメージがいまだに一般的なんだろうが、本展はその後のミュシャ、つまりパリを離れ故郷モラヴィアに帰ってからの活動の紹介に力を入れている。とはいえパリ時代の、サラ・ベルナールのポスターをはじめとする「これぞアール・ヌーヴォー」的な作品群はやはり外せないようで、実際ひときわ目立っていた。これらパリ時代の作品を省いたらかなり地味な展覧会になっていたかもしれない。
表題の「知られざる」とは、本展が個人の秘蔵コレクションによるものから来ている。地元の医者の三代にわたる個人コレクションがもとになっていて、チェコ国内でその一部が最初に一般公開されたのが2010年とのこと。来日はもとより、欧州外で公開されるのも今回が初めてだという触れ込みだ。とはいえ、パリ時代以前の初期の素描群を除けば、とくにびっくりするようなほどの「新発見」はなかったのだけれども(ただし、カタログ巻頭の2本の論文は、どちらもたいへん興味深く面白かった)。
ミュシャの謎のひとつに、出世作となった『ジスモンダ』がある。サラ・ベルナールの依頼を受けて1894年の年末に制作され、翌95年の元旦にパリ市内に掲示されるや否や大反響を呼び、それまで無名の挿絵画家だったアルフォンス・ミュシャは文字通り一夜にして時代の寵児となる。
一介の無名画家が大スター女優のポスターを手がけるいきさつには当時から諸説あり、あきらかに作り話とわかるゴシップも流布していたそうだが(真相は、サラがミュシャを指名したのではなく印刷所に発注したときたまたまミュシャが居合わせていたらしい)、それ以上に謎なのが、このときまでポスターなど描いたことのなかったミュシャが、いきなり完成度の高い独自のスタイルを獲得していることだ。
カタログ巻頭論文で、千足伸行氏はこう書いている。
しかし《ジスモンダ》の前にはそもそもポスターを手がけたことのないミュシャがなぜ、あるいはいかにして一気にいわゆる「羽根の生えそろった(full-fledged)ミュシャ様式」に到達したかの謎は残る。画家の息子ジリも父の評伝の中で、「彼の(ポスター)様式はなんの前触れもなく、突然、一夜にして、完成したものとしてして生れた。(…)パリに着いた最初の日から(《ジスモンダ》を制作した)1894年のクリスマスまで、技術的な成長と象徴主義への傾倒を除けばなんの変化もないのに」と述べている。こうした見方に従えば、《ジスモンダ》は一種の「突然変異」によって生まれたことになるが、様式的にもシェレ、ロートレックの影響は考えられない。修業時代の「蛹」から、アール・ヌーヴォーの華麗なる「蝶」への変身を可能にしたのは何なのか。身過ぎ世過ぎのために描いていた挿絵から《ジスモンダ》は想像できない。(「ミュシャとその時代」p.9)
この展覧会には、これまでほとんど紹介されてこなかった「パリ時代」以前の作品や、《ジスモンダ》以前の仕事も多く展示されている。上記をふまえてそれらの絵を観ると、なるほど様式としてはのちの「ミュシャスタイル」ではないものの、大仰なほどのドラマティックな構図や人物のポーズ、表情などにデッサン力の確かさを感じることができる。また、人気作家となって以降でも、ミュシャのサインがなければまずそれとはわからない、きわめて写実的なイラストレーションの仕事も継続していたようだ。つまり、ミュシャは挿絵職人として、すでに注文主の要望にある程度こたえうるだけの幅広い力量を備えていたと見ていい。
そのことから、《ジスモンダ》でのミュシャは、「ポスター向けの(あるいはベルナール専用の)スタイル」をかなり意識して作っていたと考えてもいいのではなかろうか。クリスマス頃に受注し大晦日には納品しているという、きわめてタイトなスケジュールで描かれたポスターではあるけれど、しかし、だからこそ、思い切って大胆なスタイルが生まれたとも言えそうだ。
ミュシャの息子であるイジー・ムハ(=ジリ・ミュシャ)は父の思考をこう書いている。
ウィリアム・モリス以来基本的な論点となっていた応用芸術の問題について、父の考えは今やはっきりとしていた。「芸術のための芸術と、産業が利用する芸術とは区別しなければならない。後者は前者を含んではならず、しかし前者は後者に侵されてはならない。」(「わが父アルフォンス・ミュシャとアール・ヌーヴォー」アール・ヌーヴォーの華 アルフォンス・ミュシャ展図録、1983年、p29)
ミュシャは「スタイル」についてかなり意識的で、作品の目的によって使い分けていたのだろう。それだからこそ、彼は1900年を頂点として以後徐々に「時代遅れ」となっていくアール・ヌーヴォー様式や華やかなパリの生活にさっさと見切りをつけて、新たなパトロンを探しにアメリカに渡れたのだろうし、さらには故郷に帰り祖国のために働く後半生を選べたのかもしれない。
* * *
蛇足ながら、上に引用したイジー・ムハのエッセイが2本も収録されている、1983年のミュシャ展カタログ(日本全国を巡回した大がかりな回顧展としてはたぶん本邦初だったはず)は今となってはかなり興味深いものだ。というのも、当時はまだ「チェコスロヴァキア社会主義共和国」の時代で、ミュシャは自国内でそれほど高い評価を与えられてはいなかったようなのだ。実子であるイジーの文章はともかくも、プラハ国立美術館長をはじめとする巻頭論文や解説文が全体にかなり冷ややかなのが、今から見るととても面白い。チェコ国内でミュシャが「再評価」されるのは1990年代半ば以降と思われるが(わたしは未見だが、1994年のニューズウィーク誌に「ミュシャ、100年目の名誉回復—あのチェコ人芸術家が、ついに祖国でも認められた」という記事が掲載されている)、現在のような高評価一辺倒ではないミュシャ像が、このカタログからは垣間見ることができる。
逆に、祖国に帰ってからのミュシャに「スラヴ民族の精神」だの「国家と人類愛のために」(いずれも展覧会の章題)だのと名付ける、今回の展覧会の方がちと賞賛しすぎなのかもしれない。ミュシャがスラヴ民族主義者として精力的に活動していたことは事実だし、実際に切手や紙幣のデザインなど国家的事業での仕事も遺しているのだが、それでも、彼の民族主義がアナクロニズムとして冷ややかに批判されていた時代があったことも、きちんと認識しておくべきではないかと思うのだが。それこそ、ミュシャとミュシャをとりまく、今となっては「知られざる」一面として。
2013 03 10 [design conscious] | permalink
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