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[exhibition]:狩野山楽・山雪展
●特別展覧会 狩野山楽・山雪
2013年03月30日~05月12日 京都国立博物館
辻惟雄さんの古典的名著『奇想の系譜』(1970年)に取り上げられている、又兵衛・山雪・若冲・簫白・蘆雪・国芳という6人の画家のうち、個人的にこれまでいちども実物を観たことがなかったのが狩野山雪だ。京都国立博物館での狩野派というと、2007年の『狩野永徳展』が記憶に新しいが、今回の展覧会は、その永徳と山雪をつなぐ狩野山楽をきっちりおさえていて、京狩野の流れがよくわかるようになっている。
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信長に仕え秀吉にも重用された永徳だが、仕事のしすぎからか、壮年期に倒れてしまう。一家の棟梁を継いだのは実子の光信だが、かれの作風は親に似ず繊細なもので、永徳の豪快な作風を受け継いだのは門人の山楽だといわれている。
秀吉の没後、狩野一族は徳川家に仕えた探幽が中心となり、その後の天下の御用絵師集団としての地位を確固たるものとした。狩野の血統ではない、いち門人にすぎなかった山楽は、豊臣側についていたため大坂夏の陣のあと落ち武者狩りに追われるが、公家衆や二代将軍秀忠の助命活動を得て九死に一生を得る。かれはそのまま京に残り、のちに「京狩野」と呼ばれる一派の祖となった。
おなじ狩野派といっても江戸に拠点を移した主流派とはちがい、京狩野は公的なうしろだてを失ってしまったことからそのブランド力を低下させてしまうことになるのだが(たとえば、1626年の京都二条城障壁画制作には、江戸狩野の主力に混じって老山楽も参加しているが、42年の京都御所での障壁画は本家筋だけで制作され、狩野山雪は呼ばれなかった)、そのためか、江戸のメインストリームにはない独自のスタイルを生み出すことになる…。
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辻さんが著書のなかで激賞していた「老梅図襖」や、重要文化財「雪汀水禽図屏風」をはじめ本展の見どころはたくさんあるのだが、会場でわたしは他のことを考えていた。簡単に言えば<時代の流れ>とでもいうものを感じていたのだ。
山雪だけを特集した展覧会なら、もしかするとそんなことは思いつきもしなかったかもしれない。しかし今回の展覧会はまず山楽をおき、永徳からつづく歴史の移り変わりを感じさせる構成となっているのだ。
そのことが特によくわかる作例が、会場の最初と最後の部屋に置かれている。「龍虎図屏風」である。ともに六曲一双の絢爛な屏風で、右隻に天から降りてくる龍、左隻に振り返る虎を据える構図は共通している。けれども、両者の作風はまったく異なっている。
ちょうど本展と同じタイミングで、大阪市立美術館に『ボストン美術館展』が巡回している(2013年4月2日〜6月16日)。わたしもようやく、簫白のあのマヌケ顔の龍を拝めたのだが、同展には長谷川等伯の「龍虎図屏風」も出品されている。せっかくなので三者の龍虎を並べてみた。図版は上から等伯(1606年作)、山楽(桃山時代/17世紀初頭)、山雪(江戸時代初期/17世紀前半)。
ちなみに長谷川等伯は1539年生まれ、山楽は1559年生まれ、山雪は1590年生まれである。
山楽の「龍虎図」は図録に<桃山時代>と明記されているので、17世紀の初頭も初頭、1603年以前の作としていいのだろう(ということは、制作年代順では山楽-等伯-山雪となるはず)。つまり、関ヶ原の戦いで天下の趨勢は決まったとはいえ、1615年の大坂夏の陣で豊臣家が滅ぶまでにはまだ時間がある、そういう時期の作品だということになる。京や大坂では、圧倒的に不利な状況とは言え形勢の逆転を密かに狙う気概も満ちていたことだろう。
上図の中段、山楽が描く龍虎は、そんな闘いの緊張感が画面中にみなぎっている。中国のいわゆる“四方四神”にならって言えば、四肢をふんばり大きく口を開けて威嚇している西の白虎(描かれているのはホワイトタイガーではないけれど)が豊臣、悠然とそれを見下ろす東の青龍が徳川とみていいだろうか。両者いまにも飛びかからんばかりの、たいへん迫力のある屏風だ。
上段、等伯の龍虎図は、山楽に比べるといくぶんおとなしいが、水墨画つまりモノクロームの画面ということもあってか、ぜんたいに不穏な空気が漂っている。静かな殺気とでも言おうか、右隻と左隻の間には一触即発の気配が満ちている。等伯は1610年に没しているのでこの屏風は晩年の仕事だが、枯れた味わいどころか老いてますます鋭さを増しているかのような、しびれるような一作だ。
で、山雪である。上図最下段がそれだが、なんとも奇妙な龍虎なのだ。龍はあらぬ方向を見ているし、虎は虎で前足をお行儀よくちょんと揃え、振り向いている。龍虎相打つ、というイメージからはほど遠い、なんとも脱力した龍虎図だ。どちらにも戦意はなく、ただ相対しているだけ。江戸幕府が粛々と体制を整えていくなかで、もはや好戦的な図など誰も望まなかった…のだろうか。
山楽の火花散る画面も、山雪の平和な画面も、どちらも「時代が描かせた絵」といっていいのだろう。近代絵画のように作家の個人的な要請のもとで作られた作品ではないので、注文主の意向もふんだんに取り入られているに違いない。それだけに、世間の空気がいっそう如実に表現されているはずだ。山楽と山雪、ふたつの「龍虎図」はたかだか数十年と離れていないはずだが、こんなにも「隔世の感」を感じさせるものかと、わたしは会場で愕然とした。
山雪の「龍虎図」はしかしもうひとつ、そのタッチにもおどろかされる。特に左隻の虎の描きかたに思わずのけぞった。虎の毛並みがこと細かに描きこまれているのだ。右隻の龍の、いかにも水墨画然とした大きな筆遣いとはまったく違う細密描写。フェティッシュというか、ほとんど病的なまでに、つやつやとした毛並みが再現されている。虎ぜんたいの、解剖学的な正確さという点では滅茶苦茶もいいところなのだが、本物の毛皮を見て/触って描いたんじゃないかと思われるほどの細密描写が、この虎になんともいえない奇妙なリアリティを与えている。木を見て森を見ず…のではない。逆に、一枚の葉っぱをこれでもかというくらい精密に描いて森を表現しましたとでもいうような、なんともヘンテコな画面に、これはなっているのだ。
この龍虎図の延長には、もちろんかの「雪汀水禽図(図版下)」がまっすぐつながる。川面の波をこってり盛り上げ、絵画すなわち平面作品というよりも、むしろレリーフや彫金を思わせる仕上がりになっている、山雪のあの代表作である。こればかりは、図録の画像ではなく実物を見ないことには、作品の異様さはとうてい伝わらないと思う。珠玉の手工芸品のような感触が十二面の巨大な屏風いっぱいに展開される、あのあり得なさときたら!
狩野山雪は、画家としてたいへん厳格な一面があったらしい。学者肌というか、故事古典が題材の場合は文献をきちんとあたり、考証を重ねていたという。また、古代以来の先達画家の研究も行っていて、かれが遺した草稿は息子の狩野永納が引き継ぎ、のちに『本朝画伝』として一冊にまとまる。メインストリームの江戸狩野ではなく。傍流にすぎない京狩野が日本画家列伝を書いたというのがなんとも興味深い。
江戸ではとうてい許されなかっただろう大胆な作画や、日本初の本格的な画史編纂。どちらも、主流派からは一歩引いた立場ならではの仕事と言える。このあたりに山雪の心情を感じることができるのかもしれない。
ちなみに、同じく京の都で同じように異様なモザイク画もつくった伊藤若冲が生まれるのは1720年で、山雪とはまったく時代が異なる。狩野山雪は若冲や簫白よりもうんと時代を先取りしていたのだ――とみるよりも、このような特異な作風をも許された、江戸期における京という都市の特殊性に思いを馳せる方が良いのかもしれない。
2013 04 28 [design conscious] | permalink
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