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裸足のフラメンコ

  


●長嶺ヤス子 裸足のフラメンコ
 企画・製作・監督:大宮浩一 出演:長嶺ヤス子、他/2013年 日本映画
 
 その人は、意外なほど小柄で、そうと言われなければ普通の(ちょっとお洒落な)おばさん、という雰囲気でもあった。
 2013年5月4日。大阪・十三の小さな映画館、第七芸術劇場。“長嶺ヤス子の現在”を伝えるドキュメンタリー映画の、大阪での公開初日。上映後の舞台挨拶のために、彼女はあらわれた。
 
 シネコン全盛期のいま、1スクリーン96席しかないミニシアターはかなり貴重な存在だが、その日は立ち見が出るほどの盛況だった。映画が終わって、会場のスタッフが長嶺さんを壇上に呼ぼうとする前に、主役は客席後方から颯爽と歩いてきた。
 「普通のおばさん」ではない証拠に、ピンと張った背筋が美しい。ただ立っているだけの姿でもすばらしくカッコイイのは、長年にわたり「舞踊」なる自らの肉体を見せつける技を演じ続けてきたからだろう。彼女はそのまま壇上にはあがらず観客席と同じ場所に立ち、挨拶をした。約20分ほど客席からの質問に答え、そのあとはロビーでサインに応じた。
 
 
 映画の中の長嶺さんは、どれが本当の素顔なのかわからなくなるほど、顔つきがどんどん変わる。入院中の長嶺さん、舞台の上の長嶺さん、散歩中の長嶺さん、猫や犬の世話をしている時の長嶺さん、絵を描いているときの長嶺さん。画面にその顔が写るたび、それぞれまったくの別人のような風貌なのだ。
 舞台挨拶に訪れた長嶺さんも、幅広の帽子を被っていたせいもあって、その表情の細かいところはよく見えない。すぐ間近に立っている筈なのに、なんだかとても遠いところに存在しているようにも思える。素顔を無防備にさらけだしているようでいて、しかしけして決定的なそれは見せない。「芸の人」として、そのあり方は完璧だと思った。
 
どうして撮るかなんて、撮ってみたらわかるわよ。それは私だけじゃなくて、私を見て映すものであって、私自身じゃないかもよ。あなたの感じる私を、結局、表現するものだと思うのよね。私そのものじゃなくて、きっと。

 ——映画冒頭の、彼女のセリフだ。この映画はドキュメンタリーなので、長嶺ヤス子そのひと以外にはありえない強烈な個性(キャラクター)を全編にわたってたっぷり伝えているのだが、でありながら、その孤高の内面は捉えきれてはいないようにも思えた。「長嶺ヤス子というキャラクター」をフィルム上に存分に印象づけながらも、長嶺ヤス子という人物の本性は見せない…これは別に監督が悪いのではない。きっと、どんな身近な人にあっても、おそらく彼女のふるまいに大きな違いはないという気がする。そうして、そのことこそが、彼女の「芸」ではないのだろうかと思った。「芸をする人」と書いて芸人、「芸を能う人」と書いて芸能人、「芸をあつかう術(すべ)」と書いて「芸術」だ。芸人でも芸能人でも芸術家でも、この際呼び名はなんでもいい。とにかく長嶺ヤス子は天性の「芸の人」なのだろう。
 
 長嶺ヤス子さんが「フラメンコの旗手」として第一線で活躍していたのは1970年代で、わたしは残念ながら、その時代の彼女をまったく知らない。『娘道成寺』で芸術祭大賞を受賞したのが1980年、以降は創作舞踊の道を選び、“長嶺ヤス子のダンス”としか言えない独自のダンスを追求する。
 …若い頃フラメンコに出会えたからスペインに留学までしたけれど、自分はどうやってもそこからはみ出てしまった。昔は長唄や三味線の凄さはわからなかったが、もし気づいていたらフラメンコには行かなかったかもしれない。そんな風なことを、彼女は語った。最近、日本人のフラメンコ公演に友達を連れて見に行ったはいいものの、途中で気分が悪くなって出てしまったの。日本人が踊るフラメンコってなんであんなに気持ち悪いんだろうと思ったの…とも。「フラメンコというスタイル」に魅了されて踊る人たちと、自分が表現したいなにものかの実現のために「フラメンコというフォーマット」を習得した人との、これは決定的に相容れない差異なのかもしれない。
 
 
 
 世の中の出来事にまったく関心がなく、世間話も大嫌いだという。やりたいことをやり尽くして、踊りにも飽きてしまった、とも言う。絵を描くのは売るためで、自分が本当に描きたいのはもっと暗い、凄惨な絵かもしれないね、といいつつも、その方が売れるから、明るい色彩で描くと断言する。また、映画のなかの自分はいっぱいウソをついてると笑う。100匹以上世話をしている猫や犬は毎年誰かが亡くなるが、それも自然なことと受け入れる。映画のなかでつきっきりで見守っていた老犬のハチは昨年死に、しばらくはどうしていいかわからなくなるくらいになったというが、それも時間が解決してくれたとも。
 
 すべてが自然体のようで、しかしそのすべてが巧みな演技のようでもある。どこまでが本心で、どこからが演出なのか、もしかするともうご本人にもわからないのかもしれない。複雑で多面的で、だからこそ観る人を惹きつけてやまない魅力を湛えている。この不世出のダンサーは、その前にまず稀有な個性を持った人間であったのだ。
 映画の冒頭は、病室からはじまる。2011年の春に直腸ガンがみつかったが、手術すれば完治するということで、実際、彼女は退院からわずか1ヵ月後にはステージに立っていた。いや、そんなエピソードひとつとっても、とても70台後半の人間の体力/気力とは思えないんですが。
 
 ロビーでのサイン会のとき、わたしは「あの手術のあと、もうお身体は大丈夫なんですか?」と尋ねた。
 「ええ、あれはすっかり良くなったんだけど、他にね——」そうつぶやいて、サインを書き終えたプログラムをすっと手渡してくれた。わたしとしてはその後に続く言葉を聞きたかったのだが、うしろには大勢のファンが列をなして順番を待っている。
 ありがとうございました、これからもどうかお元気で。早口でそれだけ告げるのが精一杯だった。
 

2013 05 04 [dance around] | permalink このエントリーをはてなブックマークに追加

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