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バレエとマンガ

 
Ballet
●バレエ・マンガ 永遠なる美しさ
 2013年07月13日〜09月23日 京都国際マンガミュージアム
 
 連休の最終日、祇園祭の真っ最中に観に行ってきました。館内には浴衣姿のカップルや親子連れ、もちろん外国人も大勢いて、至るところに座ってマンガを読みふけってる。おいおい祇園祭よりマンガかよと思いつつ、かくいう自分も祭の喧噪よかここの方が落ち着いてるかもと思ってやって来たのだった。ま、みなさん考えることは同じってことですわね。
 お目当ての『バレエ・マンガ展』は入館料の他に料金が必要な特別展ではなく、展示スペースも思っていたより狭い。とはいえ内容はとても充実していて、じっくり見ていくと思いのほか時間がかかる。よくもまあこれだけ集めたものだ、と感心するほかない展示資料の数々は圧巻のひとことで、バレエ・マンガというおそらくは日本独自の発展を見せた一大ジャンルを丁寧に紹介している展覧会だった。前後期で展示入れ替えがあるとのことなので、これは後期も行ってみたいと思わせる。
 
 一般書としても発売されているという展覧会図録の方は、作家へのインタビューが充実していて、それだけでも資料として貴重なものだろう。一方で、展覧会場でしか見られない展示品も多く(たとえば薄井憲二コレクションやバレエの衣装の実物など)、両者は互いに補完しあっている関係と言えそうだ。薄井コレクションのひとつだったと思うのだけど、ロシアのダンサーでのちに教師などもつとめた人が描いたカリカチュアが展示されていたんだけど、図録では一切触れられていない。あとで図録を見ればいいや、と思って作者の名前をメモせずに通り過ぎてしまったんだけど、しまったなあ。たいへん達者な描線なので諷刺の内容を知らずに単なるイラストとして見ても面白く、ポストカードでも売ってたら絶対買っていたんだけど(追記:総合監修のヤマダトモコさんから、ツイッター経由で<ニコライ・レガット(Nikolai Legat)です>との回答をいただきました。ありがとうございます)。
 
 
 「日本におけるクラシック・バレエの受容史」から説き起こす本展は、マンガを抜きにしたバレエの歴史展としても非常に興味深い。これは先に触れた薄井憲二コレクションはもちろん、企画に舞踊研究家の芳賀直子さんが加わっていたり、資料提供に京都のバレエ学校の名門、有馬龍子バレエ団が協力していることが大きいだろう。「日本人とバレエのかかわり」を総論として最初に提示することで、そのあと展示される「バレエ・マンガの発展の歴史」にぐっと説得力が生まれていたと思った。
 
 本題の「バレエ・マンガ」の方は、全く知らなかった作家や作品が続々登場してたいへん楽しい。わたくし『アラベスク』(山岸涼子)や『SWAN〜白鳥』(有吉京子)のような超メジャー作品しか読んだことがなく、それも途中で挫折したマンガが多いので(『テレプシコーラ 舞姫』(山岸涼子)でさえも第一部でリタイアしてしまったしなあ)、あまり語れることがない。なので、ただただ展示されている原画や掲載誌の実物を眺めてはううむと唸っているばかりなのだった。
 そんな中途半端なバレエマンガファンでも、本展はたいへん楽しかった。具体的にどこが? それはたとえば衣装の描き方の遷移であったり、もっと広く「ダンスをする身体」を漫画家がどう描いてきたのかを一挙に俯瞰できる、またとない機会であったからだろう。
 
 有馬バレエ団の資料として、実際のバレエの舞台で使用される衣装が展示されている。『ジゼル』の村娘と精霊の衣装、それに『白鳥の湖』の白鳥と黒鳥の衣装。実際に目の当たりにすると、たとえば腰がめっちゃ細いのに驚く。身長ももちろん小柄で、最近でこそ長身のプリマもいるのだろうけど、こんな華奢で繊細な身体であんなハードな踊りを演じなければならないバレエの過酷さがいやでも想起される。
 で、目を転じたら、そのまんまの<華奢で可憐な>少女が大技を演じているマンガの原画が並んでいるわけだ。現実のダンサーの身体と、マンガに描かれた理想としてのダンサーのイメージの、違うようで同じ、同じようで違う、その「身体」にクラクラしそうになる。実際、図録に掲載されているインタビューで槙村さとるは「バレエ・マンガには身体がきちんと描かれている」という趣旨の発言をしていた。バレエ・マンガとはつまるところ「理想の身体」を描くものであり、現実のバレエ/ダンスもまた、「人間の身体とは何か」を真摯に追求してきたジャンルなのだなというのが、会場を巡っていくうちによくわかる。
 そもそも、普通に暮らしていて「つま先立ち」のポーズなんてあり得ないのだ。バレエの基本ポジションと言われる五つのポーズだって、どれもはなはだ非日常な姿勢なのだ。いわゆる「クラシック・バレエ」がいかに人工的で反・自然的な芸術なのか、あらためて思い知らされる。
 
 
 
 テニスマンガの名作『エースをねらえ!』(山本鈴美香)で、主人公の岡ひろみがお蝶夫人の試合中の写真を見て思わず美しいとつぶやいたら、コーチが(宗方さんじゃなくって桂コーチの方だったかな)これはまるでバレリーナのようなポーズだろう、だったら君はその美しさに首が折れるほどのショックを受けなければならない、とかなんとか言い放つ場面があったと思う(記憶だけで書いているので間違ってたらごめんなさい。なにせコミックスを手放して久しいので)。テニスプレイヤーの一瞬の動作がバレリーナと通じるのかどうかはいまだにわからないけど、バレリーナのポーズが「首が折れるほどのショック」と表現されていたのがじつに印象的だったので覚えているのだ。
 あのエピソードは、逆に言えばバレリーナの身体はトップ・アスリートのそれと同様かあるいはそれ以上である、ということをスポ根マンガの文脈で明言した一例だったのだなと、今にして思う。コドモだった当時のわたしは、バレエはただひたすら耽美でキレイなもの、バレーやテニスといったスポ根マンガはただひたすら肉体を酷使するハードなもの、というふうに別個のものとしてしか認識していなかった。けれどもこのときはじめて「バレリーナもまたアスリートなのだ」と教えられたように思う。「美しさ」はすなわち「強さ」なのであり、同時に「強い」のは「美しい」のだということ。スポーツマンガを楽しんでいたはずのコドモのわたしに、「美しさ」という別次元のベクトルがいきなり提示され、その代表例がバレエのポーズだった…そんな記憶が、展示品を見ているあいだにいろいろと思い出されてきた。
 
 
 そう、問題は「身体」なのだ。現実のバレエは(かつてバレエは、多分に鑑賞者である男性の目線の支配下だったにせよ)ありえないほど繊細な身体になろうとし、夢物語であるはずのバレエ・マンガもまた、そういう「現実」を肯定し補強する身体を描いてきた。
 
 思えば『アラベスク』の主人公は「バレリーナにしては背が高い」という身体コンプレックスを抱えていて、それをどう乗り越えるのかが主題のひとつでもあった。こうしてみると、「マンガにおけるバレエ」とは、つまりは「女性の身体」が大きなテーマだったのだろう。確かに、太っているだの痩せているだの低いだの高いだのといった、自分の身体についての悩みは、思春期の女性にとって世界を左右するほどの最重要問題に違いあるまい。
 なお、わたし自身はそういった身体コンプレックスはほとんど持たなかった。どっちかというと病弱でスポーツも苦手だったので、身体能力のハンデについては少年期のかなり早い時期であきらめ、学生時代はひたすらごまかしながらやり過ごしていたのだ。したがって、バレエマンガも単に華麗で優雅なオハナシとしてしか読めなかったし、ましてコーチ役や先生役である男性との恋愛問題なんかは、少女マンガとしては大事なテーマではあったかもしれないけれど、もともとオトコノコにはあまりピンと来ない主題だったのだ。
 
 
 
 コドモ時代はさておき、じゅうぶんなオッサンになった今になってあらためて「バレエ・マンガ」の世界を眺めてみると、いろいろと腑に落ちることが多い。<オッサン>というのは自分の身体のあちこちにガタが来ているのを自覚することから始まるのだが、バレエ・マンガというのは持って生まれた「自分の身体」に意識的になることから物語がはじまるのだ、ということに気づかされた展覧会でもあった…とまで書くとさすがに大げさかな。けれど、展示品中の数少ない男性作家である魔夜峰央のエッセイマンガなんかは、端的に「そのこと」を言い表していたように思う。
 

2013 07 16 [dance around] | permalink このエントリーをはてなブックマークに追加

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