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『春の祭典』ニジンスキー版
●Stravinsky and the Ballets Russes
Mariinsky Ballet/Valery Gergiev
BelAir/BAC441/2009年
…いやあ、ようやく観ることができた。それが最初に口に出た感想でした。
わたしが「バレエ・リュス」にきちんと関心をもつきっかけとなったのは、1998年にセゾン美術館と滋賀県立近代美術館で開催された「ディアギレフのバレエ・リュス展」だったかな。それ以前からも名前はもちろん知っていたし(ただし昔は「バレエ・リュス」ではなく「ロシア・バレエ団」と呼んでいたと思う)その歴史を紹介する本もいくつか目を通してはいたものの、ちゃんと「こりゃ面白い」と思うようになったのはこの展覧会に行ってから、だと思う。
ニジンスキーが振付をしたオリジナル版『春の祭典』は、かつては“幻の”作品だったけどのちに復元が試みられ、1992年にはパリ・オペラ座による来日公演も行われていたので、ディアギレフ展をやっていた頃はすでに“幻”でもなんでもなかった。けれど、わたし自身はその公演は観ていないしVHSビデオやレーザーディスクも手に入らないしで、個人的にはやっぱりずっと“幻”のままだった。その<ニジンスキー版>を、今になってやっと観ることができたのだ。上記ディアギレフ展から数えて15年後だ。ようやく、という言葉を使っても差し支えはあるまい。
今回手に入れた盤は収録が2008年6月。その翌年にはディスクが発売されていたようだ。そんなことにはまーったく気づかないまま、つい最近になって通販サイトで見つけ、慌てて手に入れたという次第。ま、この作品の初演は1913年なので、文字通り「ここで遭ったが百年目」。ビデオソフトにも出会えるタイミングというものがあるのかなどとも思ったり。
『火の鳥』と『春の祭典』のふたつが収録され、他にバレエ・リュスをざっと紹介する短編映像と、『春の祭典』を復元したミリセント・ホドソン/ケネス・アーチャー夫妻のインタビュー映像が附いている。後者には練習風景もたっぷり含まれていて、何を語っているのかはさっぱりわからないけど眺めているだけでも面白い。これ、日本語字幕盤が出ないかなあ。
上の写真、ブルーレイディスクの下になっているのがホドソンの復元した『春の祭典』についての本。このブログでは映画『シャネル&ストラヴィンスキー』の感想を書いた際にも紹介してます(→こちら)。
映画『シャネル〜』では『春の祭典』は冒頭に登場し、劇場中が大混乱したという伝説を再現している(あの“騒ぎ方”は必ずしも事実ではなかったという検証もあるようだけど)。とうぜんダンスの方も少し映るんだが、やっぱり断片じゃよくわからない。今回はじめて全編を通して観て、その異様さに改めて驚いた。いや、100年前のパリのお客さんが騒ぎ立てるのも無理ないわ、こりゃ。
収録がマリインスキー劇場での公演というのは興味深い。というのも、ワツラフ・ニジンスキーはこの名門バレエ団の出身だからだ。
マリインスキーはダンサー養成機関として帝室舞踊学校を持っていて、ニジンスキーは1907年にここを卒業。すでに在学中から卓越した才能を見せていた(学科は苦手で社交的な性格でもなかったから学校では孤立していたそうだ)が、プロのダンサーとなるやたちまち頭角をあらわし、まもなくマリインスキーの若きスター・ダンサーとなった。
一方、ディアギレフは1909年、パリでロシアのバレエを紹介する最初の興行を打つ(『セゾン・リュス』)。このとき集められたダンサーはすべてマリインスキーからの「借り物」で、要はオフの期間のアルバイトみたいなものと言っていいかもしれない。ディアギレフはパリ公演にあたってロシア皇帝の援助を受けたかったのだが、敵対する勢力からの横やりが入ったので一切を私財で賄わなくてはならなくなった。マリインスキーのダンサーは「国家公務員」ともいうべき立場なので、団員の貸し出しはいわばお情けでもあったのだろう。しかし、ニジンスキーはたちまちパリの観客から大喝采を浴び、ディアギレフにとってなくてはならない存在となった(愛人でもあったし)。
結局、マリインスキー劇場は1911年2月にニジンスキーを「解雇」するのだが、裏でそれを画策したのはディアギレフだという説もある。もしもニジンスキーがそのままロシアに留まっていたら、その後の世界のバレエの歴史は大きく変わっていたかもしれない。ともあれ、1911年を最後にかれは二度と祖国の土を踏むことはなかった。
マリインスキーの側からみれば『春の祭典』は、(直接の理由はどうあれ)かつてクビにしたスター・ダンサーのいわくつきの作品、ということになる。まあ、この100年のあいだに政治体制もふくめ世の中がまったく変わってしまったから、もう因縁めいたものはなにもないとは思うけれど。
もうひとつ、ホドソン/アーチャー夫妻がこの公演の監修を行っているのにも驚いた。ジャケットに名前が記されているのはいいとして、まさか練習までみっちり付き合っていたとは思いもしなかったからだ。ミリセント・ホドソンは1979年から8年をかけてこの作品の復元に取り組んでいたが、ケネス・アーチャーは彼女とは別に、舞台美術を担当したニコライ・レーリヒの研究者として『春の祭典』の美術を調査していた。やがてふたりは出会い、意気投合し、結婚。まさに『春の祭典』が生んだカップルであり、『春の祭典』復元はふたりにとって我が子のようなものだろう。
つまりこのディスクに収録されているステージは、現在望みうる<もっとも由緒正しい『春の祭典』>と言っていい。
えーと、前置きがずいぶん長くなった。いや、この作品に限ってはこういう「前置き」を知ってから観る方が楽しいと言えそうだけど、そんなことを何も知らずとも、初めて観た人はやっぱりびっくりするんじゃなかという気がする。
「なんなの、これ?」という声があがるかもしれない。いわゆる<クラシック・バレエ>の雰囲気は、ここにはほとんどない。民族舞踊のようでそうでもなく、奇妙なポーズばっかりやっているかと思えばいきなり痙攣したかのように全身を震わせたりする。まったくわけがわからない。上にも書いたけど、100年前のパリの観客が騒ぎ立てるのもわかる気がする。
のちにダンスの歴史を変えたとも言われたほどの革新的な作品でもあったから、このバレエについてはいろんなことが言われてきた。いわく<原始的><古代信仰の儀式><異教><凶暴>…総じて「洗練」だとか「優雅」だとか「上品」だとかとは対極にあり、野蛮で攻撃的、不可解で粗野な作品だというふうに解説されてきたように思う。
じっさいに復元作品を観て、それらの評はあながち間違いではないだろうな、とは思う。しかし、想像していたほど奇天烈なバレエでもないとも思った(もちろん、いま現在の眼を通してみれば、という但し書きがつくが)。
奇妙に見えるのはまずなによりも衣装と化粧、それとクラシック・バレエのイディオムを無視した動作やポーズ、このふたつだろう。フェイス・ペインティングを大胆に施したメイクは異形の風貌であり、異世界の神々のようでもある。身に纏うコスチュームもオリエンタル趣味というにはあまりに異教的な意匠だ。いまならエスニック・ファッションの一部として気軽に消費されうるテイストだろうが、当時の眼にはそれはそれはおぞましい暗黒文明の一部と捉えられていたのかもしれない。
19世紀後半にはいわゆる「ジャポニズム」が流行しはじめ、西欧とはまったく異なる文脈の文化を興味本位ながらも受け入れつつあった当時のパリ市民だが、その消費のされかたは彼ら好みに上品にアレンジされたものだった。そんな時代に、この舞台はまるで純度の高い麻薬をガツンと投与するようなものだったんじゃなかろうか。
いま「麻薬」と書いたけれども、ニジンスキーが提示した『春の祭典』の世界観は、それまでの西欧的価値観を激しく陵辱するような、ことさら神経に障るような、そういう風なものだったと思う。単にロシア風というのではない、もっと東方の中央アジア風でもない。それは架空の「古代」であり架空の「原始」であり、ひょっとして架空の「原始ヨーロッパ」、「ギリシャ以前、ケルト人が跋扈していた古代ヨーロッパ」かもしれない。いずれにしろ<春を迎えるにあたって大地に処女の生贄を捧げる>という神話的な主題が、20世紀初頭のパリのスノッブ連中にとって大いにカンに障っただろうことは想像に難くない。ニジンスキーはわざと観客を挑発してやろうとは考えていなかったのかもしれないけれど、創作の動機に「自分のことを珍獣かなにかのように見つめるパリの目線」に対抗したいという意識があったとしても不自然ではないはずだ。『春の祭典』は美術家のニコライ・レーリヒの着想をもとに、作曲者のイーゴリ・ストラヴィンスキーと振付のワツラフ・ニジンスキーが協同してシナリオを作ったそうだが、わたしはこの舞台から「パリっ子のイメージする<辺境の地としてのロシア>」をことさらにカリカチュアライズしたような、悪意のようなものを感じたのだ。
反逆のエネルギーにあふれ、生贄となる処女の死を通して生を祝福するこの作品は、生を求めようとして数百万もの優れた人々を死なせた二十世紀をまさしく象徴する。この音楽の作曲者ストラヴィンスキーがはじめこの曲につけようとしたタイトルは<犠牲(ヴィクティム)>であった。(『春の祭典 第一次世界大戦とモダン・エイジの誕生』(新版)モードリス・エクスタインズ著/金利光訳、みすず書房、2009年、p.xiii)処女の生贄によってしか祝福されない生、それは植民地主義によって発展してきた西欧諸国を暗喩するものだったかもしれない。だからこそこの作品は、初演時に大騒ぎとなり、スキャンダルを生んだのではないか。
ま、<政治的な意図>だとか<隠されたメッセージ>だとかいうのは、深読みしようとすれば何だって言える。上に書いたことだってこじつけに過ぎないのであって、当時不評だったのは単純に観客が期待していたような審美的なバレエじゃないものを見せられたから、という理由だけでじゅうぶんだろう。なのでわたしの勝手な妄想はここまでとするが、ともあれ、ニジンスキーが振り付けた『春の祭典』はとても複雑な構造で、時に舞台のあちこちで各自が異なる動きをしているから、隅々まで把握するには何度も見返す必要がある(こんなややこしい作品をよくぞ復元したものだ)。これからこのディスクは何度も観ることになるだろう。
ブルーレイの映像はさすがに色鮮やかで美しいんだけど、一点だけ、カメラが動きすぎるのだけが大きな不満。カットが細かく切り替わったり、真上からのアングルが入ったりで非常に忙しい。ただでさえ複雑なダンスなんだから、逆にカメラは動かない方が絶対にいいのになあ。マルチアングルで無編集の「観客席モード」とか収録してくれたら少々高くてもわたしは買うぞ。
2013 07 21 [dance around] | permalink
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