« スケオタへの道? | 最新記事 | 熊川哲也『ロミオとジュリエット』 »
ヤン・リーピン「孔雀」
●ヤン・リーピン 孔雀
東京公演 2014年05月23日〜06月01日 Bunkamuraオーチャードホール
大阪公演 2014年06月07日・06月08日 梅田芸術劇場メインホール
ヤン・リーピンは2011年4月に『クラナゾ』を観て以来、2度目であります(そのときの感想文はこちら)。
公演パンフレットによれば彼女の初来日は1997年。大阪国際芸術祭に参加し最高芸術賞を獲得したそうですがわたしは未見。大がかりな来日公演としては2008年の『シャングリラ』がはじめてとなるのかな。この演目は2010年にも再演、ただし残念なことに、わたしはどちらも見逃してます(オーチャードに『シャングリラ』のポスターが貼ってあったのはよく覚えてるんですが)。そのことを今さらながらひじょーに後悔しているんですけれども、まあ言ってもどうしようもないことでもあり(せめてビデオでも入手できたら…とは思うけど、ヤン・リーピンはやはり舞台で観てこそ、だしなあ)。
どーでもいい話ですが東京公演の主催がTBSなのに大阪公演はABC朝日放送が主催なんですね。会場の梅田芸術劇場のすぐ隣にはMBSがあるというのに。
…そんなことはともかく。
* * *
個人的に初見だった前作が、全編ありがたい仏教説話だったのでいくぶん構えて出かけたんですが(それにヤン・リーピンの出番も少なかったし)、今作は打って変わってほぼ出ずっぱり、しかも非常に官能的なダンスに溢れていて、たいへん楽しめました。ヤン・リーピンは英語版Wikipediaには1958年生まれとあるけどそんなことは到底信じられないほど(でも同じページで1974年生まれカテゴリーに入っていて、んんん??)若々しくスレンダーで、ただそこに立っているだけで溜息がでるほど美しい。彼女はダンスを専門的に学んだことがないそうですが、クラシック・バレエから民族舞踊まで、さまざまなジャンルのダンスのエッセンスを取り入れているのがよくわかります。ヤン・リーピンは主役のメス孔雀を踊りますが、腕から指先に至る動きに誰もがまず思い浮かべるのがバレエの古典『瀕死の白鳥』や『白鳥の湖』でしょう。けれど彼女の孔雀はもちろん白鳥ではなく、たいへん独創性に溢れています。いったいこのひとの関節はどうなっているのかと思うくらい自在に動き、見ていてまったく飽きません。
物語は一対の孔雀を主役に、長めの序章にはじまり第一部が<春><夏>、第二部が<秋><冬>と4つのパートに分かれて構成されています。途中からメス孔雀に横恋慕するカラスが登場し、時にオス孔雀と激しい戦いを演じますが、カラスが一方的な悪役として描かれているわけではありません。前半の<春><夏>あたりでは結局勧善懲悪的なストーリーになるのかな、と思っていたんですがさにあらず、<秋>の章でオス孔雀は死に、つづく<冬>ではメスの方も天に召されてしまいます。では悲恋の物語かというとそうでもない。
舞台上手に<時>、下手に<神>というふたりの登場人物(?)が出てきます。この両者は<春>の前に姿をあらわし、以後最後までずっとステージを見守っているという役割。<神>は季節毎に葉っぱや花びら、枯れ葉、雪を降らし、ときに舞台まで降りて来て下々の睦言や争いを眺めていますが、ほんとにただ「眺めて」いるだけ。下界のあれこれに一切手を貸すことがありません(唯一、最終章でメス孔雀に手を差し伸べ、昇天させますが)。
上手側の<時>はもっと凄い。なにしろ登場してからずっと、延々と同じ場所で回転を繰り返すのみという役なんですね。顔は終始無表情、ほんのときおり腕を上下させる程度で、まんまトルコはメヴレヴィー教団のセマー(旋舞)です(→Google画像検索。ただしセマーは反時計回転なのですがこちらは時計回転で回っておりました。<時>だけに)。バウハウスかロシア構成主義かってくらいシンボリックな、螺旋をイメージした白い衣装も実にすてきなデザイン。実はわたくし、最初は人形をターンテーブルに載せてくるくる回してるんだと思っていたんですね。ところがだんだん、いやそうじゃないぞ、ちゃんと人間が演じてるんだと気付いてからはすっかり目が離せなくなって。とはいうものの舞台上ではちゃんと本筋のドラマが進行しているわけで、いやはや目が忙しい。
<神>と<時>は途中休憩の20分間もずっと休まず踊り続けておりました。この舞台、休憩時間とカーテンコールの間は写真撮影OKということで観客が思い思いにスマホやデジカメやiPadを掲げてパシャパシャやってましたがもちろん両者はただひたすら自分の役割を演じきっています(わたしも何枚か撮影したんですが、ブログにあげてよいものかどうかわからんので自重しておきます)。
<時>は、主演のメス孔雀が昇天し舞台上に誰もいなくなったあとも旋回しつづけ、徐々にそのスピードをあげてやがてピタッと止まる。
ここで終演。
もう会場中、割れんばかりの拍手大喝采。カーテンコールでは<時>にひときわ拍手が大きかったのも頷けます。
主要登場人物(人物というか鳥ですが)こそ孔雀とカラスで、2時間以上も舞台上で愛憎たっぷりの濃厚なドラマを繰り広げていたんですが、実は本当の主役はこの<時>なんじゃないか(ちなみに演じているのはヤン・リーピンの姪で、弱冠15歳のツァイー・チーという少女。生まれてこの方いちども髪を切ったことがないんだとか)。生きとし生けるものが誕生し、出逢い、愛を育み、争い、やがて死んでいくなかで、<時>だけはそんな一切とかかわりなく、超越的な存在としてただひたすら回り続ける——これをアジア的と言っていいものかどうかわかりませんが、『クラナゾ』でストレートにうたわれていた仏教的世界観にあい通ずるものを、わたしは感じました。
* * *
前作『クラナゾ』でもそうでしたが、衣装や舞台装置が大がかりなのは中国系の舞台ならでは、なんでしょうか(といっても他には『アクロバティック白鳥の湖』くらいしか観てませんが)。今作はオーケストラ・ピットにも装置を仕込み、岩がぐんぐんせり上がったりして前後左右だけでなく上下方向にもダイナミックな動きをつくっていました。ちなみに<神>と<時>はこのオーケストラ・ピットの上が定位置。
実はわたし、入手したチケットがたまたま最前列で、<神>の目の前だったんです(おかげで岩がせりあがると思い切り見上げることになりましたが)。各章の冒頭、<神>は葉っぱやら花びらやらを盛大に撒くんですが、おおむねオーケストラ・ピット内に落ちてゆくもののいくらかは客席のこちら側にも届くわけで。最後の雪なんかは、かたまりがどさっと頭上から降ってきて(薄い紙なんで痛くも何ともないですが)、まるで体験型アトラクションの中にいるようでもありました。しかしあれ、あとで掃除がたいへんだろうなあ。
紙吹雪は<神>が撒くだけでなく<冬>の章のあいだじゅうずっと、メイン舞台にも大量に降り注がれてました。雪を表現するのに照明や投影などで擬似的に済ませるんじゃなく、物理的にモノを、それもこれでもかといわんばかりに大量に使うというのは、いまどきなかなかお目にかかれない手法じゃなかろうか。出演者も多く(総勢50名とか)、ヒト・モノ両面の圧倒的な物量というのはそれだけでたいへんな迫力を生みだします。
<夏>の後半、出演者総出の群舞なんかは、ちょっとベジャールの『春の祭典』を連想してみたり(そういえばこのときは音楽も『祭典』ぽかった)。エンターテイメントというにははるかに芸術的で、それでいて象徴化というにはあまりに(時に下世話なほど)具体的だったりで、演出や美術のさじ加減がなんとも独特で面白い。
音楽は基本的には録音ですが(会場のあちこちにサラウンドスピーカーが置かれて客席中を包み込む音響だったのはいいんですが、そのひとつがわたしのすぐ前にもあったものだからちょっと耳が痛かった)、出演者みずからが演奏するシーンも多かった。<夏>で鳥たちが口々にさえずる音は、効果音でもありダンサーたちが自ら発しているようでもあり。おそらくはその両方なんでしょう。視覚・聴覚表現のすみずみにまでとてもていねいに気を配っているのがよくわかる演出で、その細やかさが観ていてたいへん心地いい。いつの日か再演があるのなら、ぜひもう一度観たいなあ。
2014 06 08 [dance around] | permalink Tweet
「dance around」カテゴリの記事
- トリニティ・アイリッシュ・ダンス2018日本ツアー(2018.06.17)
- 【Ballet】眠れる森の美女(2018.05.13)
- 薄井憲二さんのバレエ・コレクション!(2018.04.08)
- DUNAS(2018.04.07)
- 55年目のThe Chieftains(2017.11.25)
trackback
スパム対策のため、すべてのトラックバックはいったん保留させていただきます。トラックバック用URL:
トラックバック一覧: ヤン・リーピン「孔雀」: