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孤高の人、バルテュス

 
Balthus
●バルテュス展
 東京展 2014年04月19日〜06月22日 東京都美術館
 京都展 2014年07月05日〜09月07日 京都市美術館
 
 京都では1984年の回顧展以来、30年ぶり2度目となるバルテュス展。わたしはこのとき残念ながら見逃してまして、実物に対面するのは今回が初(のはず)。かのピカソが「20世紀最後の巨匠」と呼んだとかで、展覧会の告知ポスターなどにはそういうキャッチコピーが踊っているわけですが、そんな超有名人の言葉を借りなきゃならない程度にはあまり知られていないひとではあるのでしょう。実際、いろんな<主義>が跋扈した20世紀のヨーロッパ絵画史のなかでバルテュスはどの流派にも属することなく孤高の道を選んだそうなので、なかなか紹介されにくい画家のひとりかも知れません。
 それだけに、アトリエの再現を導入部に、エンディングには晩年を過ごした館で篠山紀信が撮った写真のパネル(どれもかなり大きい)と遺品のかずかず(蔵書や愛用していた日用品など)を飾り、展示の本体は初期からの作品をほぼ年代順に並べるというそうとうチカラの入った今回の回顧展は、作品のみならずその人となりをもしっかり伝えようとする意図がうかがえます。もっとも、本展には代表作の全てが網羅されていたわけではないですが、今回のが好評ならばそう遠くないうちにまたやってくるかも知れません。
 
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 バルテュスは同時代のアヴァンギャルド芸術運動を警戒し距離を置いていたということですが、会場をぐるっと一巡してまず感じたのは、シュルレアリスムとの意外なほどの親和性。とはいえ絵の主題ではなく、スタイルというかタッチというか、画面全体の佇まいが、たとえばルネ・マグリッドやマックス・エルンストあたりの古典的なシュルレアリストの画風を想起させます。描かれた人物の、時に窮屈なほど奇妙にねじれたポーズや、あからさまな感情をほとんど見せない生硬な表情なんかもシュルレアリスムぽい。風景画でもたとえば『牛のいる風景』(1941-42年)。丘陵地で、農夫が2頭の牛を使って切り倒した木を運んでいる…という作品なんですが、牛に引きずられている大木はなんとなくダリっぽい様相だし、左端に立っているやせ細った枯れ木は上半分が右に大きくカーブを描いていて、全体にどこか不安をかき立てられ、しばらく目を離せませんでした。
 もっとも、これらは同時代の画家の作風に影響を受けたというよりも、ある時期まではもっと大きな<不安定な時代の空気>を彼もまた共有していたからこそ、なのかもしれません。そういう目で見ると、なるほど第二次世界大戦後の作品はどんどんオリジナリティを高めていって、その過程はスリリングなほど。
 
 
 展示の最初のころに、イタリア・ルネサンスの画家フランチェスカが描いた壁画を模写したものが数点並んでいます。いずれも1926年に制作されたもので、彼は1908年生まれだから17、8歳の頃のもの。生真面目で達者な描線はもうこのころからなんだなあと、ディテールをゆっくり眺めつつ感心しておりました。バルテュスはすでに十代のうちに、終生追い求めることになる自身の理想を発見していたのでしょう。だからこそ目まぐるしく移り変わってゆく同時代の前衛芸術運動などには目もくれず、孤高の道を歩めたのかも。
 
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 宣伝文句どおりに、彼が「20世紀最後の巨匠」なのかどうかはわたしには判断できません。バルテュスは2001年に亡くなっていて、21世紀を知らないのだから「20世紀を生きた画家」であることは疑いようのない事実なんですが、そのスタンスが20世紀の作家としてはかなり特異なのもまた事実でしょう。この画家の真の評価はむしろあと数十年後か、ひょっとすると数百年後になってようやく確定するのかもしれません。彼が信奉していたルネサンス期の絵画作品を現代のわたしたちが眺めるのと同じように、数百年後の観客がバルテュスをどういうふうに眺めるのか。そんなことを思いながら、わたしは会場を何度も行ったり来たりしておりました。
 

2014 07 13 [design conscious] | permalink このエントリーをはてなブックマークに追加

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