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[cinema]:ジプシー・フラメンコ

 


●ジプシー・フラメンコ
 脚本・監督/エヴァ・ヴィラ
 出演/カリメ・アマジャ、メルセデス・アマジャ“ラ・ウィニー”、ファニート・マンサーノ他
 2012年・スペイン映画→公式サイト
 
 原題は《Bajari》といい、ジプシーの言葉で“バルセロナ”を意味するのだそう。この映画は、そのバルセロナ生まれの不世出のバイラオーラ、カルメン・アマジャ(1913〜1963)の生誕100周年記念と銘打たれています。【追記:『パセオフラメンコ』誌2014年9月号巻頭ではカルメン・アマジャを特集しているんですが、東敬子さんの記事によれば彼女の生年は実は1918年だったとのこと。なんと!】
 
 カルメン・アマジャは4歳にしてすでにプロとして踊っていましたが、1936年に(おそらくスペイン内戦がきっかけなのでしょう)アメリカ大陸へ渡ります。40年頃からはメキシコを本拠にし、1963年に肝臓病で亡くなるまで舞台や映画など多方面に活躍した、伝説の大スターです。パセオ・フラメンコ編『現代フラメンコ・アーティスト名鑑』(1998年)では<その迫力あるサパテアードを超える踊り手は今に至るまで現れていない>とまで評されています。
 
 
 本作はふたつの物語が並行して語られる、ちょっと不思議な構成のドキュメンタリー映画です。
 一方の主役は、カルメン・アマジャの姪であるカリメ・アマジャ。メキシコ生まれですが、バルセロナのミュージシャンからオファーを受けて、バルセロナ最大のお祭りメルセ祭への出演を決めます。彼女の母メルセデス・アマジャ・ラ・ウィニーもメキシコから駆けつけて入念なリハーサルが繰り返されるんですが、その一部始終が実に見応えがあるんですね。<舞台裏>好きにはたまらない場面の連続。
 ミュージシャンたちはまさにバルセロナらしい純粋なフラメンコを、ということでカリメにオファーをかけたのだけど、最初のミーティングで彼女の鋭くも気迫のこもったステップを目の当たりにしたとたん、「この迫力に負けない演奏をしなくちゃダメだ」と目の色が変わったのが面白い。いや、ホントただの練習風景とは思えないほど緊張感に満ち満ちたダンス・シーンが次々と出てくるのが圧巻でした。本番の舞台も少しだけ写りますが、時間にして数分もないはずなのにその場面はものすごく濃厚なので有無を言わせず引き込まれ、盛大な拍手をしたくてうずうず。偉大なるカルメン・アマジャの血脈が、没後半世紀を経てもこうして受け継がれていることには感銘を覚えずにはいられません。
 
 
 映画のもう一人の主役は、若干5歳(撮影当時)のファニート少年。映画の冒頭で、カルメン・アマジャの最後の出演作である映画『バルセロナ物語』を目を輝かせながら鑑賞しています。カルメンの踊りを観て「マシンガンみたいだ…」とつぶやくのが印象的です。
 バルセロナに生きるジプシーの狭い共同体の中で、少年はダンサーを夢見ています。彼の長い髪は時に女の子のようにも見えて、たとえば街中の噴水の中でパンツ一丁で踊るシーンがあるんですけど、全身濡れそぼった少年が半裸で一心に踊る姿は、かなりエロティックに撮られていました。史上初めてパンツルックで踊ったというカルメン・アマジャやそのスタイルを受け継ぐカリメの男性的で力強いフラメンコと、少年でありながら少女的というか、おそらくはまだ性的未分化の段階にいるファニートのフラメンコの対比はとても興味深いものでした。このへんはおそらく、女性監督ならではの視点なのかもしれません。
 
 
 で、ありきたりなフィクションだと、この少年がひょんなことからカリメと知り合い、彼のその後の人生を大きく変える出来事が起こり…という具合に、ドラマがいろいろエスカレートしていくんでしょうけど、この作品ではそこまでは描いていません。メルセ祭のステージを観る少年というシーンこそあるものの、ふたりの「主役」が直接対面することはありません。現時点では、あくまで「当代一の人気ダンサー」と「観客である少年」という関係のまま。
 そうして、映画は、メルセ祭のあとの日常の生活にもどったバルセロナの街角で終わります。ファニート少年が弟を相手に振付を細かくダメだししている——わたしはここで、高野文子『春ノ波止場デウマレタ鳥ハ』のラストシーンを想起しましたが、あの名作漫画と同様、こういうシーンはグッときますねえ。
 伝説のバイラオーラ、カルメンの映画に目を輝かせ、その姪であるカリメの実演を目の当たりにしたひとりの少年が、こうして“バルセロナのフラメンコ”を受け継いでゆく…。説明的なセリフやナレーションなどは一切ないんですけど、映画としてはこういう解釈で間違いないでしょう。ドキュメンタリー映画としてみるならば少々あざといというか作為が鼻につきますが、監督の言いたいことは明確です。
 
 “ジプシーとして生まれただけで 悪い人間だと決めつけないでくれ”—そういう歌詞のうたが、劇中に2度出てきます。アマジャ一族を含む過去のジプシーたちが辿ったであろう道、そしてこれから辿るかもしれないファニート少年の人生が、この一節に込められているのでしょうか。
 閉鎖的とされるジプシー社会において、こういう映画をつくることがどれだけ困難なことか。もとより部外者であるわたしなどには想像すらできない世界ですが、この映画はキャメラの存在を忘れさせてくれるくらい、彼らの繊細な表情を丹念に捉えていたと思います。
 

2014 08 14 [dance around] | permalink このエントリーをはてなブックマークに追加

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