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チューリヒ美術館展とホドラー展

 
 2015年最初の展覧会めぐり。神戸市立博物館の『チューリヒ美術館展』と兵庫県立美術館の『フェルディナント・ホドラー展』をはしごしてきました。『チューリヒ展』の方にもホドラーの作品が数点あるので、続けて観てもさほど違和感はありません。

201502
●チューリヒ美術館展―印象派からシュルレアリスムまで
 東京展 2014年09月25日~12月15日 国立新美術館
 兵庫展 2015年01月31日~05月10日 神戸市立博物館
 (図録)デザイン:川野直樹、川添英昭、森重智子、中村遼一(美術出版社 デザインセンター)

●フェルディナンド・ホドラー展
 東京展 2014年10月07日~2015年01月12日 国立西洋美術館
 兵庫展 2015年01月24日~04月05日 兵庫県立美術館
 (図録)デザイン:田中久子
 
 東京会場、兵庫会場ともに展示期間がかなり重なっているのは、両展が「日本・スイス国交樹立150周年記念」だからなんでしょう。ふたつを一緒に観て欲しいという主催者側の意図が感じ取れます。特設ショップで販売されてる記念グッズの構成も、両者ともだいたい似た感じでしたし。


Zurich まずはチューリヒ美術館展から。1階ホワイエには巨大なパネルが設置されていて、その一部が額縁状に切り取られています。後ろから顔を出せばあなたも肖像画の仲間入り、ってことで記念撮影をするひとたちが後を絶ちません(上の写真中央、黒く塗りつぶしてる部分)。そういやこういう参加型のパネルって、ここ数年でかなり増えたような気が。スマホで撮ってすぐにSNSで流す人も多いから、そういう“口コミ”効果を期待した仕掛けなんでしょうね。
 さて、会場に入ります。モネ、ゴッホ、ゴーギャン、セザンヌ、ルソー、マティス…ヨーロッパ近代美術のビッグネームがずらり並んで、まあ賑やかなこと。ただ、有名作家が次々と出てくるわりには、作品自体はこれまであまり見たことがないものが多かった気がします。この美術館は今まで日本への貸し出しなどはあまりやってなかったのかな。
 実は、副題に「~シュルレアリスムまで」とあるので、当然その前の「ダダ」に関しても何かあるだろう、と思ってたんですよ。チューリヒといえばなんといってもダダ発祥で知られる、いわば“聖地”。パリ生まれのシュルレアリスムなんかよりもずっとずっと因縁が深いはずです。なんらかの言及があって当然と思っていたんですが…ものの見事にな〜んにもなかったのには、かなり驚きました。えええ、なんでぇええ?
 ま、チューリヒ・ダダの主役はドイツ人をはじめ第一次大戦を逃れてやってきた外国人ばかり。当のスイス人にしてみればあまり関係がなく、むしろダダを嫌っていたんだろうなあ…などと、会場では無理矢理思い込んでいたんですね。ところが帰宅して図録を開いてみると<(チューリヒ美術館の)ダダのコレクションは世界最大級を誇る>と書いてあるじゃないですか。えええ、なんだそりゃぁぁああ。
 
 日本展向け作品セレクトの際にダダをばっさりカットして、そのかわりシュルレアリスムを入れたんだろうなあ。いやしかし、ふつうそこは逆でしょ、どう考えても。百歩いや一万歩譲って、日本ではダダが(シュルレアリスムに比べて)人気がないのはしょうがないとしましょう。だとしても、せめてふたつみっつくらい紛れ込ませることはできたでしょうに。いやむしろこういう機会だからこそ、たとえほんの少しでも触れておくべきだったのではないかと。企画を担当した学芸員はいったい何を考えているのかと。てめえらどういうつもりかと。…まあ、チューリヒ・ダダ100周年となる来年(2016年)にでも改めてがっつりやってくれたらそれはそれでいいんですけどね。はたして期待していいのかなあ。どうだろうなあ。頼みますよ、ホントに。
 ま、それはそれとして、展覧会そのものはチューリヒ・コレクションの品の良さというか趣味の良さが随所に感じられて、楽しく観覧しました。シャガールやジャコメッティなど特集で組まれた作家も見応えがあります。なかでもオスカー・ココシュカが描いたアデル・アステア(フレッド・アステアの姉)の肖像画に出会えたのが嬉しい。他に特筆すべき作品としては、エルンスト・バルハラの彫刻《難民》(1920年)には深い感銘を受けました。
 
* * *
 
 同時期に別会場で開催しているホドラーの作品が、ここでもたくさん観られたのも嬉しいサプライズ。ということで、印象が鮮明なうちにいそいそと兵庫県美の方へ移動します。
 
Hodler 写真は道路から建物へ入るアプローチに設置されたパネルを、建物側から撮ったもの。さすがにこちらの会場には記念撮影用の顔ハメ看板のたぐいはありません。
 
 恥ずかしながらフェルディナンド・ホドラー(1853〜1918)という作家を意識したのは今回がはじめてです。これまでほとんど聞いたことがない名前だったんですが、何の先入観もないのがかえって幸いしたのでしょうか、予想していた以上に興味深い、良い展覧会でした。
 わたしが特に惹かれたのは会場ちょうど中ごろ。ダンスのいちシーンを切り取ったかのような、印象的なポーズの人物画が多く集められた作品群でした。上の写真に写っているのもそのうちのひとつで、『オイリュトミー(1895年)』という作品。
 解説パネルを読むとこの「オイリュトミー」や「リトミック」といった興味深いキーワードがいろいろ出てきます。実際ホドラーは、ルドルフ・シュタイナーはともかくも(少なくとも上記作品が発表された1895年時点では、シュタイナーはまだ神智主義者としての活動を始めていないはず)、リトミックを提唱したジャック=ダルクローズとは親交があったようです。
 
 ドガのように直接ダンサーを描いたものではないにもかかわらず、この時期のホドラーが描いた人体像は、きっちりと振付され音楽にあわせて動く“ダンス”そのものを強く感じさせます。たとえば『春 Ⅲ』(1907-10年頃)の左側の人物のポーズはニジンスキーの『牧神の午後』(1912年)の有名なポーズを彷彿とさせるし、チューリヒ美術館展にあった『真実、第二ヴァージョン』(1903年)はまるでモーリス・ベジャールの『ボレロ』(1960年)を予言しているかのよう。そしてもうひとつ、1910年に描かれた『悦ばしき女』という作品は赤いドレスに身を包んだ女性の後ろ姿を描いたものですが、わたしの大好きなフラメンコダンサー、マリア・パヘスになんとそっくりなことか(!)
 ホドラーの描いた絵がのちのモダン〜コンテンポラリー・ダンス界に影響を与えたという事実はないにせよ、ホドラーがいかにダンスの、というより近代的な“身体”の本質を衝いていたかということには思いを馳せざるを得ません。人物のポーズやその配置にはリズミカルで音楽的な構成をもちながらも、画面ぜんたいからは静謐でがっちりとした、古典的と言ってもいい堅牢さを漂わせているところもたいへん面白く、長時間眺めていてもまったく飽きません。上に挙げた作品の前では、わたしは我を忘れてしばし立ちすくんでいました。
 
 ホドラーの生涯の全てが興味深いというわけではなく、たとえば後半に多く展示されていた風景画などは個人的にはあまりピンと来なかったんですが、19世紀末から20世紀初頭という激動の時代を生きた画家の回顧展として、かなりダイナミックかつリアリティのある内容ではありました。現代と通じるところもあれば全然異なる価値観もある。“およそ100年”という時間差は、古すぎもせず新しすぎもしないそんなディテールを味わうのにちょうどいい頃合いなのかもしれませんね。
 

2015 02 20 [design conscious] | permalink このエントリーをはてなブックマークに追加

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