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マリア・パヘスの新しい“マニフェスト”
YO,CARMEN Ia Ética En Femenino
私が、カルメン 女性における倫理
東京公演 2015年04月24日〜26日 Bunkamuraオーチャードホール
兵庫公演 2015年04月28日・29日 兵庫県立芸術文化センター KOBELCO大ホール
マリア・パヘス舞踊団の来日公演は2年ぶり8回目となります。全一幕十場、上演時間約1時間30分というのはここ最近の諸作品とだいたい同じ長さでしょうか。
本作は劇中にマリア・パヘス自らが「全ての女性に捧げます」とコメントしているように、強いメッセージをもった作品となっています。そのため、構成や演出で従来の彼女には見られなかった要素がいくつも見られました。
●女性による、女性のための
タイトルにもあり、また全十場の最初と最後にビゼー作曲の有名なメロディが使用されているので、本作のモチーフにはメリメが書きオペラ化されたことで一躍<キャラクターの典型>となった、あの女性像を念頭に置いていることは間違いないでしょう。ただしマリアは男性を誘惑・翻弄し、破滅へと導く<運命の女>ではなく、ごく普通に生活する一般的な女性として描きます。言葉を覚え、本を読み、家事をこなし、子どもを産み、そして育ててゆく。そうした日常がフラメンコというかたちで描写されます。ぞうきん掛けや掃き掃除といった日常の所作のマイムが見事にフラメンコになってゆくあたりのキュートなこと! エプロン姿のマリアさんがじつに可愛らしいです。
それらの場面を描写していくにあたり、効果的な照明と、それから各種小道具の使い方がなんともこの人らしくて小粋なんですね。その手際の良さはよくできた手品を見ているようでもあって、一冊だとおもってた本が一瞬で三冊に増えたり、いつのまに装着したのかカスタネットをひとしきり打ち鳴らしたかと思えば次の瞬間にはもう手から離れていたり。オープニングの扇の使い方からすでにそうなんですが、先にも書いた掃除道具を使った群舞など「これぞマリア・パヘス」と言いたくなる楽しいナンバーに満ちています。エンターテインメントってのをよく分かってる人だなあとつくづく思います。
●ミュージシャンはどこ?
マリア・パヘス舞踊団のこれまでの作品は、どれも音楽の贅沢な使い方に特徴がありました。その傾向は年を追う毎に強くなっていて、ミュージシャンを決まった席に固定せず、曲目によって舞台のあちこちに移動させたり、時には自分も一緒になってセッションしてみたり。舞踊団の他のダンサーと踊るよりもミュージシャンと一緒にいる方が楽しいんじゃないの、と思ってしまうくらい、彼らは舞台上で大切な存在として扱われ演出されてきました。
ところが、今回はミュージシャンの姿が見当たらない。カンテ(うた)のアナ・ラモンとロレト・デ・ディエゴのふたりはなんどとなく舞台上に姿を見せ、ダンサーたちとも絡むんですが。
音はすれども姿を一切見せないミュージシャンたちは、後半になって舞台後方に、まずシルエットとして現れます。ふたたび消えたかと思ったらラスト10曲目〈ESENCIA(エッセンス、本質)〉になって、ようやくその存在を遮っていた紗幕があがり、彼らにもライトが当たります。
ギター2名、カホン1名、ヴァイオリンとチェロがそれぞれ1人ずつ。全員男性であり、そうかなるほど、今回のテーマからして<男性の存在>はできるだけ隠したかったんだな、と最後に諒解。なにせ2人の男性舞踊手も紗幕のうしろでミュージシャンとともに手拍子を打ち続けるだけで、ダンサーとしての出番はごくわずかですし(そのわずかなシーンが、実に鮮やかでかっこいいんですけどね)。
群舞といえば、これまでになくアンサンブルを重視しているという印象も持ちました。昔はマリアのソロとその他の群舞を交互に、という構成も少なくなかったし前作『UTOPIA ウトピア』(2012年/日本公演は13年)でもまだその傾向はあったかと思うんですが、今回は多くの場面で「群舞の一人としてのマリア・パヘス」が見られたのが新鮮。で、他のダンサーとの粒の揃いぐあいが大変いいんですね。それぞれ短いながら見せ場もあったりして、舞踊団としての成熟がそこかしこに見られたのは嬉しいかぎりです。
●言葉、そしてまた言葉
今作はまた、「言葉」が大きくフィーチャーされていることも特徴的です。舞台の左右端に字幕を表示する装置が置かれ、2曲目の〈La Palabra(言葉)〉と8曲目〈La MArcha De Lo Contidiano(日常の行進)〉で日本語訳が表示されます。2曲目の方は日本の与謝野晶子を含む世界各国の女性詩人たちのことばを元に振付されているもので、朗読される言語もそれぞれの国のもの。ダンス作品にこうした字幕がつくことは珍しいことではないものの、とりあえず気が散るというか字幕を読んでるとダンスが観られないし、ダンスに目をやってると字幕がおろそかになるしで、個人的にはあまり好きな趣向ではありません。わたしは初回で懲りたので、2回目からは字幕を一切無視してダンスに集中していましたが。詩歌のあいまで4人が幾何学的なフォーメーションをつくるシーンが特にマリア・パヘスぽくて好き。
8曲目の方はもっと凄い。なにせマリア自らがヘッドセット・マイクを付けて滔々と語るんですね。小道具として肩に掛けたカバンの中から捜し物が見つからない、と騒ぐ前半から、紙を取り出して観客に日本語で「ヨウコソ」と語りかける中盤(東京公演と兵庫公演ではちゃんと会場名を言い換えてました、って当たり前ですが)があって、最後に「自分らしく生きる女性でありたい」と叫ぶ怒濤のフレーズが連なる。当然、会場は拍手喝采。いちばんの盛り上がりです。
実のところ、ここまで直接的に「言葉」を使うとは思っていなかったので、正直やや面食らいました。2004年の『SONGS BEFORE A WAR』のように、マリア・パヘスの作品には社会的メッセージが込められたものもありましたが、こんなにもダイレクトかつストレートに「言葉」を語ってしまうとは。
じっさい、このシーンは「演説」といってもいいものだったかもしれません。ファッション誌やメディアが振りまく<女性らしさ>に振り回されたくない、というところで
女はこうあるべきなんて決まり事に、兵隊のように従うのはもうたくさん!
と言ったとたんリズムがマーチになり、群舞とともにその場を<兵隊のように>行進する。このひとらしい反戦メッセージまで加えるなど、随所にアイディアが詰まった言葉群であり、演出ではあったのですが。
観ていてふと思いついたのは、あ、これっていわゆる「マニフェスト」なんだってこと。20世紀初頭、いくつもの前衛芸術運動がこぞって「宣言」を出しました。未来派宣言、ダダ宣言、シュルレアリスム宣言…それらに倣っていえば、今作は<新しいマリア・パヘス宣言>でもあるのでしょう。つまり「私は次のステージに向かうわよ」という、マニフェスト。
太りすぎているとか、胸が垂れているとか、
目じりにシワが刻まれているとか、
目の下にたるみがあるとか、見かけが最悪だとか
そんなこと言わないで。
50歳だからって、恥ずかしいと思わせないで
50歳を超えると、気力はともかく体力はさすがに若い頃と一緒というわけにはいかなくなるでしょう。
5曲目〈Alegrîas De Ls Amas De Casa(主婦の喜び)〉のラスト近くで、ハンカチをつなぎ合わせた大きな布をマントン代わりにしてひらひら舞う、大きな見せ場があります。26日の公演だったか、ひとしきり舞ったあと、そのハンカチで汗をぬぐい、一呼吸置いてから次の曲に移ったことがありました。これまでならどんな激しいナンバーのあとも平然と、かつ速やかに次に行っていたはずなんですが…。そういえば、エンディング近くでもソロから次のソロへ移るとき、今までより少し間をあけていたように思えます。
上の「語り」の中にも年齢や体型に言及していますが、自身の身体の微妙だけども決定的な変化について、他の誰よりもまず本人自身がいちばん敏感に感じ取っていることでしょう。自らの肉体の、指先から後ろ姿にいたるまで完璧に扱えるひとが、そこのところに意識的でないはずはありません。だからこそ、ここで語られる「言葉」にはとんでもないリアリティと重みがあります。
マリア・パヘスが「言葉」を強く意識するようになったのは、直接的にはポルトガルの作家ジョゼ・サラマーゴとコラボした2005年あたりからでしょう(参考映像は→こちら)。その後の作品『MIRADA ミラーダ』(2011年)や前作『UTOPIA』でも、朗読される詩が大きなウェイトを占めていましたが、今回まさかここまでになるとは。——これはあくまで想像ですが、「カンテ(うた)、トーケ(演奏)、バイレ(舞踊)」といういわゆる<フラメンコの3大要素>に、彼女は「詩(言葉)」を新たに加えたいのかもしれません。「言葉」こそがフラメンコの新しい地平を押し広げるにあたり大きな武器となる。そういう確信が、マリア・パヘスの中にあるのではないでしょうか。
じっさい今作も、メッセージを直接「言葉」で語りかけるから、意図や主張したいことは誰にも明白。間違いようがありません。<純ダンス作品>としてはどうなのさ、という点さえ棚に上げてしまえば(というか彼女にとっては「ダンス作品」である前になにより「フラメンコ作品」でしょう)、おそらく本作を観た女性の多くは勇気と元気を貰えたでしょうし、事実あの演説の場面はひときわ大きな歓声と拍手が響いていました。
このような「言葉で直接語る」スタイルが今後も続くのか、あるいは今作だけのものなのか。彼女が本当に「詩/言葉」を第四の要素として重要視するなら、今後も「言葉を多用」することはまず間違いないでしょう。私は今後、そういうやりかたで行くわよ、と、そう決意しているかのような表情だと感じました。
* * *
この先もっともっと年老いて、舞台のほとんどは舞踊団にまかせ、自身の登場はほんの少し1曲だけ、あるいはもう立っているだけ…などという頃になっても、マリア・パヘスならば、他ならぬ彼女ならば、なおも独自の存在感を醸し出していることでしょう。
できれば、そんなうんと未来のマリア・パヘスもこの眼で観たい。同時代に生きているなかでいちばん大好きなダンサーだからこそ、彼女の走り続けるその先を、とことん見届けたい。次はまた2年後になるのかな? 次はどんな手でわたしたちをあっと言わせてくれるんだろう。その日を楽しみに待ちたいと思います(といいつつ、たまには過去の名作の再上演回があってもいいなあとも思ってますが…)。
2015 04 29 [dance around] | permalink Tweet
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