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小川千甕、という自由。

 
Ogawa_senyou
●小川千甕 縦横無尽に生きる
 福島展 2014年10月11日~11月24日 福島県立美術館
 東京展 2015年03月07日~05月10日 泉屋博古館分館
 京都展 2015年12月08日~2016年01月31日 京都文化博物館
【図録】
 縦横無尽 小川千甕という生き方
 求龍堂/2014年11月3日初版/ISBN978-4-7630-1443-6
 装丁:馬面俊之
 
 2014年の秋からスタートしているわりに、足かけ3年で巡回がわずか3会場だけ、というのんびりペースの展覧会。図録は一般書籍としても販売されていますが、会場で買うと京都展独自出展分の二つ折りペーパーがついてきました(写真左上)。本屋さんで先に買わなくて良かったあ。
 
 
 小川千甕は、まずその経歴が面白い。1882(明治15)年に京都で生まれ、13歳で小学校高等科三年を中退。生家が仏教書の専門店だった縁で近所の仏画師に奉公します。会場には14~5歳頃の、修業時代の作品がありましたがきっちりと細密に描かれた仏さまの絵はたいへん見事なもので、思わずじっくり魅入ってしまいました。
 転機が訪れるのは20歳のころ。新聞記者だった実兄の紹介で浅井忠に出会い、認められて弟子入り。昼は仏画の制作、夜は鉛筆に持ちかえてヌードデッサンに励むという生活がしばらく続きます。
 
 多感な青年期に浅井忠に師事したことは、千甕の人生にとってかなり大きかったでしょう。浅井は西洋画の大家ですが、当時ヨーロッパで流行していたアール・ヌーヴォーをいちはやく祖国に紹介した工芸デザイナーでもあり、また大津絵のような日本の民俗絵にも明るい、多才なひとでした。千甕はそれらの多くを浅井から受けついでいます。
 浅井の紹介で京都の陶磁器試験場に助手として出入りするようになり、そこでたくさんの陶磁器が並んでいるのを見て「千の甕」と名乗るようになったとか。千甕は正式には「せんよう」と読みますが、近眼であったことから洒落めかして「ちかめ」とも読ませ、子ども向けのイラストレーションなどの軽い作品では「ちかめ」名義にしています。
 ともあれ、この時期の千甕のスケッチや水彩画はもろに浅井タッチだし、浅井没後(浅井忠は1907(明治40)年没)の1913年にヨーロッパ遊学した際には浅井ゆかりの地であるパリ郊外のグレーを訪問したり、また帰国後には西洋人を大津絵風に描いた連作(すごくオシャレな作品だった!)をものにしたりと、千甕の前半生はほとんど浅井忠の影響下にありました。
 
 
 浅井忠は漫画作品も遺していますが(→参考)、もちろん千甕だって漫画を描いています。というか、当時の漫画や時局風刺画は若手日本画家・洋画家の多くが関わってたので、別に取り立てて珍しいことでもなかったんですよね。今回の会場ではパネル展示だけ、図録でも巻末におまけのように載っているだけで、<漫画家としての千甕>についてはあまり詳しく紹介されていないのが残念ですが(せめて掲載誌の実物のひとつやふたつくらい展示して欲しかった)、帰宅後に清水勲『[日本]漫画の事典』(三省堂/1985年)を調べてみたら、北沢楽天が退社したあとの第二次『東京パック』(1912(明治45)年〜)などに寄稿していたようです。ちなみに同時期に漫画を描いていた人として竹久夢二、川端龍子、小川芋銭、小杉未醒、坂本繁二郎、中村不折などの名前が挙げられています。あ、岡本太郎の父・一平もほぼ同時代のひとですね。
 
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 いずれにせよ、十代前半に非常に緻密な仏画を描いていたのが信じられないくらい、壮年期の描線は自由自在でとっても楽しい。
 たとえば上の図版は1913(大正2)年にヨーロッパ旅行した際のスケッチ画。このあたりから1920年代の終わりまで、つまり千甕3〜40代のころの作品が、わたしはいちばん好きです。日本画とも洋画とも言えない独特のタッチ、親しみやすく軽やかな雰囲気、鮮やかでファッショナブルな配色など、どこをとってもいかにも楽しんで描いているんだろうなというのがよく伝わってきます。上のスケッチなど、今にもアニメーションで滑らかに動き出しそうじゃないですか。
 
 
 ただ、千甕自身としては未だ自分の画風を試行錯誤していた段階で、それが一定の方向に定まるのは1930年代以降。ここからの後半生、かれは南画に向かっていくことになります。
 もともと富岡鉄斎に憧れていたそうなのでいわば原点回帰、なのでしょう、まあ理解できなくもないんですが、せっかく誰の真似でもない独自の作風だなあとわくわくしながら会場を歩いていたのに、後半どっと南画ばかりになってちょっとビックリしたのが正直なところでもあります。
 というのも、南画とか人文画って、一見してそれとわかるスタイルが確立されていて、どれも同じように見えてしまいがちじゃないですか。ちゃんと内容を理解するには漢文の素養がないといけないし。鉄斎や池大雅でもそうなんですが、1、2点ならいいけどそればかりをまとめて並べられると個人的にはちょっとうへえって思ってしまうんですよね。
 
 ただし千甕の場合は、それまで無手勝流だった作画に「南画というスタイル」を当てはめたからこそ、かえってさらなる自由を得られた、ということは言えるかと思います。ちょうど、俳句や和歌には字数をはじめさまざまな制約が決められているからこそ自由であるのと同じように。かれにとって「南画というスタイル」は足枷なのではなく、より自在に、より高みに跳ぶための武器であったのだと思います。
 
 晩年の作品は、もはや桃源郷に遊ぶというか想像の翼をめいっぱい広げたとても大らかなもので、筆運びの楽しさがそのまま画面に定着しているのがいかにもこの人らしい。ただしその画境はもう仙人の域に達しちゃっていて、世俗の悩みに汲々としている身からすればただただポカンと口を開けて眺めているほかしようがないのですが…。
 …うーん、やっぱもう少し若い頃の、まだまだ俗っぽい時代の絵の方が、なにかと共感できるよなあ…。
 
 
 小川千甕は1971(昭和46)年、88歳で亡くなりました。太平洋戦争後の千甕は、自分の作品はもはや美術館向きではないとして、どの美術団体にも所属せず自由な立場で活動していたそうです。そういった自主独立の気風、また晩年の(本展のキーワードを使うなら)「縦横無尽」さは、あるいは明治の人ならではの心意気であったのかもしれません。
Ogawasenyou
 

2015 12 23 [design conscious] | permalink このエントリーをはてなブックマークに追加

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