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びじんが。

 
Baikouan
●培広庵コレクション 華麗なる美人画
 2016年02月20日〜04月10日 佐川美術館
 
 「美人画」といえば、日本画の伝統的な画題のひとつというイメージではないでしょうか。ところが江戸時代、浮世絵が全盛だったころにはまだ「美人画」という名称はなかったんだとか。え、そうなんだ。
 

江戸期に確立する「浮世絵」の美人絵は、当時においては「美人画」とは言われていなかった。「美人競い」「美人写し」あるいは単に「女絵」と呼ばれるものだった。「美人画」として一ジャンルを形成するのは明治に入ってからである。
 引用したのは『京の美人画100年の系譜 京都市美術館名品集』(青幻舎/2015年/ISBN978-4-86152-509-4)p.10より。同書では「美人画」がジャンルとして成立するのは明治も半ばになってからとしています。
 その全盛期は大正から昭和初期になるのでしょう。たしかに、太平洋戦争後の現代日本画界で美人画の大家ってすぐには思い浮かびません。ということは<伝統的な画題>どころか上村松園、鏑木清方、伊東深水などが揃って活躍していたごく短い一時期だけが「美人画の時代」だったのか。
 
 上に挙げた大御所どころだと、今でも回顧展があれば大賑わいになるほど人気がありますが、それ以外の画家の作品となると観る機会はぐんと減ります。なので本展はわたしにとってはじめて目にする人、名前だけはかすかに聞いたことがあるけど作品はよく知らないという作家がいくつもあって、新鮮な展覧会なのでした。
 
 
 
 そういえば永青文庫で『春画展』を観た時、「昔の日本人の裸体がたくさん見られるんじゃないかと期待していた」と書きました(→こちら)。けれどもフルヌードかそれに近い絵柄は想像していたより少なくて、細密に描かれた着物の柄と、それ以上に綿密に描かれた巨大な性器ばかりがずっと続いたのでびっくりしたものです。もしかして江戸以前の人たちは異性の(局部以外の)裸体そのものにはそれほど性的関心を抱かなかったのかなとさえ思ったほど。
 
 本展には春画はないので、あからさまな性的描写はもちろんひとつも出てきません。けれども描かれている女性達の何気ない表情だったり、うなじのラインだったりにたおやかな官能性を感じさせます。こういう秘めるが故のエロティシズムは、やはり主題が「美人」であるからこそ、なのかもしれません。
 
 もっとも、本展には裸身像が全くない訳ではない。中でも渡辺省亭の2点『塩谷判官の妻』(明治初年)と『塩谷高貞妻浴後図』(明治二十五年)は、部分的に着物で覆われているとはいえフルヌードが描かれています。ただし、そこに描かれたものはプロポーションがばっちり決まった西洋風のナイスバディだった、というのがたいへん興味深かった。江戸の浮世絵春画がもつ身体とは明らかに描き方が違うんですよね。これはやはりご一新以後ならではの身体感覚なんだろうなあ。
 
 逆に、同じ全身立像でも着物をきちんと着ていると、昭和以降の作でもあきらかにプロポーションがおかしいだろ、という作品がいっぱい見られます。頭が異様に小さすぎだろ、最近の小顔モデルかよ、と突っ込みたくなるような。八頭身どころじゃないすらっとした長身で、帯の位置から想定して足がやけに長すぎないかという風な。けれど、こっちの方が江戸伝統の美人絵っぽくも感じられます。
 
 
 
 もちろん例外もありますが、出品作の多くは「美人画」とはいえ決して<実在の美女そのもの>を描いているのではなく、主体となるのは人物よりもそれを飾り付ける<モノ>の方だったりします。美しい着物だったりかんざしだったりのデティールをとても丁寧に描いているわけで、だから顔なんかはどの作品でもだいたい同じような目鼻立ち。身に付けている<モノ>がその人の個性をあらわしており、むしろ顔の方がほぼ記号になっている。人は見た目が何割だとかいう話じゃあないですが。
 
 ま、コレクターの好みが反映されているからそういう傾向の作品が多く集まっているだけにすぎないとも言えるんでしょうけど(実際、最初に引用した『京都市美術館名品集』はさすがに公立美術館のコレクションだけあって実にバラエティに富んだ作品を収録しています)、こういうものの見方/描き方はいわゆる「日本の伝統的な」絵画の方法論のひとつでもあるはずです。実際、人体のある一部のデティールだけをやたら克明に描くというのは、春画展でもイヤというほど見た手法だし。
 
 
 
 「美人画」を描く画家は、現代に近づくにつれ衣装ではなくモデルとなる女性の内面や個性を重視するようになります。本展の出品作家でいえば梶原緋佐子や甲斐荘楠音あたり。土田麦僊に「汚い絵だ」と酷評された甲斐荘の作品などは、たしかにそれまでの単にキレイなだけの典型的な「美人画」とは全く異なる生々しさがあって、当時拒否反応を起こした人がいたこともなるほどなあと思ってしまいます。
 そこには、純粋に理想的な美だけを追い求めようとしてた近代の芸術論と、けして美しくはない現実の辛さ・暗さ・汚さをそのまま表現しようとする現代的な芸術思想との対立を見ることができます。「芸術だからこそ美しくあれ」対「芸術だからこそ現実を直視せよ」。——考えてみれば、<美人画>とは、そんな美学的対立のはざまの内に飲み込まれていった、儚いジャンルだったのかもしれません。
 

2016 03 13 [design conscious] | permalink このエントリーをはてなブックマークに追加

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