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ヤン・リーピンのシャングリラ

Shangrila2016
●ヤン・リーピンのシャングリラ
 2016年04月09日〜04月17日 Bunkamuraオーチャードホール
 
 初演は2003年、日本では2008年と2010年に来日した『ヤン・リーピンのシャングリラ』(原題:大型原生態歌舞集 雲南映象)。三度目の日本公演は、ヤン・リーピン自身がタイトルロールの〈孔雀の精霊〉を踊るのは今回がいよいよ最後という触れ込みだった。なんでもこの作品は、地元の中国雲南省では観光客向けに定期的に上演されているそうで、けれども彼女自身はもう何年も前から出演していないという。だから今回の来日公演は、日本プロモーター側のたってのリクエストに応えてくれた形なんだろう。
 わたしは2011年の『蔵謎』(そのときの感想は→こちら)と14年の『孔雀』(→感想)は観たけれど、この『シャングリラ』だけは08年、10年ともに見逃していて、今回ようやく鑑賞することができた。以下、覚え書き。
 
 * * *
 
 開演前から舞台上がなにやら動いているのは『蔵謎』と同じ。『蔵謎』の開演前は舞台空間をぜんぶ埋め尽くす巨大なマニ車を延々と回していたんだけれども、今回は「マニ石」だ。舞台上手の奥から梵字が刻まれた石を持った法衣姿の男性がゆっくりと登場し、舞台下手の手前に設置された石造りの祭壇セットのもとに置き、丁寧に礼拝したあとまたゆっくりともとの場所へ戻る。石を置いた時にごとり、と重い音がしたがあの石は作り物ではなかったんだろうか。法師役の男性はしばらくしてまた別の石を抱えて現れ、石を置き、礼拝。そのルーティンが5〜6回ほど続いたころ、全身にボディペイントを施しシンバルを持った別の男性が登場し、シャーンと鳴らす。そしておもむろになにやら口上を述べる。「あと5分ほどではじまります」と、舞台両袖に字幕が出る。
 礼拝の法師がさらに2〜3回ほど石を運んだら、シンバル男が再度あらわれ、今度は「まもなく開演」と告げる。
 開場と同時に席に着いていた人だけが観られたこの一連のパフォーマンスは、この舞台が『蔵謎』と同じようにチベット仏教の教えを全編にわたって表現する作品であることをあらかじめ宣言しているのだろう、と思っていた。けれども、いざ舞台が始まると、宗教といってももっとアニミズムというか、原始的なそれが全面に押し出されていたので、びっくりした。
 
 舞台は前半が「プロローグ 混沌初開」「第1場 太陽」「第2場 大地」。20分の休憩をはさんで後半が「第3場 家園(とプログラムには記載されてるけど字幕では「故郷」となっていたような)」「第4場 巡礼」そしてエピローグ「孔雀の精霊」と続く。カーテンコールを含めると2時間半を超える大作だ。
 初演時には3時間だったそうで、さすがに長すぎると言われて短くした由。ま、十数年やってると演出などもいろいろ変化しているだろう。けれど音楽は初演から変わっていないのかな? 前半はそのほとんどが太鼓を叩きまくるパフォーマンスと、ブルガリアン・ヴォイスをうんと強くしたような鮮烈なコーラス。なのでこちらとしてはただただ音の渦に圧倒されればいい。わたしがちょっと引っかかったのは特に後半で多用される劇伴だ。アンビエント風とでも言えばいいのかな、たぶん2003年当時だったらいかにも「最先端」的と感じられたろうアレンジの楽曲で、つまりはその音楽だけが「雲南の伝統」からはかなりかけ離れていたのだ。
 衣装や小道具、それからダンス・パフォーマンスも、多分に舞台向けに整理されているにせよそれなりに「中国少数民族の古き善き伝統」を表現しているなかで、時折流れてくるイマっぽい音楽だけが異質で、ちょっと違和感を覚えたのだ。まあ、ずべてを「伝統オンリー」にしてしまうとそれはただの“民族舞踊発表会”なんであって、このステージで演じられているのはあくまで『ヤン・リーピンのシャングリラ』というエンタテインメント・ショウなのだから、これはこれで正解なんだろうけど。舞台向けに整理、という点でいえばメインで扱われる楽器がほぼ太鼓だけに絞ってあるのも特徴的だ。雲南はもともと芸能が盛んだから絃楽器や管楽器にも面白いものが多いのだけど、ここでは焦点を当てられてはいない。
 
 原題の『原生態』というのは「ありのまま」という意味で、コンセプトとしては雲南の地に生きてきた少数民族の諸芸能をできるだけオリジナルに近いかたちで舞台上に再現したいという意図があるらしい。なるほど、それはわたしなんかがあらかじめ想像していた以上に“生々しい”パフォーマンスではあった。
 セクシャルというかもっとダイレクトにエロティックというか。近代以降の西洋文化のソフィスティケートされたバレエなんかを見慣れた眼からするとけっこうゲゲゲ、となる程度にはナマナマしさが感じられる「愛の表現」の数々。特に第3場、鳥や昆虫たちの交尾シーンを若い男女が演じている場面はなかなかに刺激的だった。キレイに言い繕えば逞しい生命力讃歌、となるんだろうけど。
 けれどもそういう「逞しさ」こそがこの作品の最大の魅力であり、神髄でもあるのだろう。そもそもヤン・リーピン自身が自分の踊りの師匠は虫や鳥だと言っているくらいだし、そもそもの発想というか拠って立つ基盤からして違うのだ。
 山本宏子さんの著書『日本の太鼓、アジアの太鼓』(青弓社、2002年)によれば、チベット草原に小さな虫たちがさかんに活動する初夏に、僧や尼僧に外出を禁じ修行に励む「夏安居(げあんご)」という制度があって、これは僧たちが外で虫を踏みつぶさないようにする(=無用な殺生をしない)ためだという。また、たとえ食べるためであっても小さな動物を殺すのを嫌うとも(p.124)。ヤン・リーピンのもつ鳥や虫たちへの愛情あふれる観察眼は、あるいはこういったチベット仏教の教えに通じるところがあるのかもしれない。
 
 しかし開演前の“マニ石パフォーマンス”で暗示されていた本作の宗教観は、直接的にはなかなか現れず、ラストの「第4場 巡礼」で一気に爆発する。五体投地や巨大なマニ車といった「わかりやすい」象徴が次から次へと目まぐるしく登場する様は、あとから振り返ればそれ自体がクラクラするほどの「宗教的体験」であったのかもしれない。
 この第4場はチベット仏教の聖地巡礼の旅を主題にしてはいるけれども、実際の宗教行事を「そのまま」再現してものではもちろんなくて、ステージ用にイマジネーション豊かに再構成されたものだ。けれども、刻々と変わる舞台装置や大きな仮面たち、そして舞台狭しと動きまくる群舞が圧倒的で、まばたきをするのも忘れて魅入ってしまった。
 
 
 闇に包まれた“混沌”から世界が誕生し、太陽信仰からはじまり土地に根ざして生きる人びと、さらには小さな虫や鳥たちの愛の交歓を経て壮大で敬虔な巡礼の旅へ。『シャングリラ』の悠久の物語は、雲南で神聖な鳥とされる「孔雀の精霊」の舞で締めくくられる。
 全編を貫くのは絢爛な色彩であり、ダイナミックなリズムであり、大胆なセットである。いかにも中央アジアとでも言おうか、大陸的で豪快な演出ではあるものの、けして粗野ではなく、むしろ繊細すぎるくらい綿密に作り込まれたステージでもあったように感じた。
 プロローグで「混沌」を演じたのは、前回『孔雀』で「時間」役を担当したツァイチー。あの長い長い髪がじつに効果的に振付に取り入れられており、ひときわ印象に残った。それにしても「時間」といい「混沌」といい、世界観を支配する象徴的な役柄がたいへんぴったりくる人だ。こういう役が似合う演者というのは世界中を見渡してもほとんどいないのではなかろうか。シャーマン、という言葉が頭をよぎる(彼女自身はけしてトランス状態になることのない、冷静でクレバーな印象なのだけど)。いずれにせよ天賦の才であることには間違いないだろう。
 前半途中の「月光」とエピローグの「孔雀の精霊」を踊ったヤン・リーピンの立ち姿の美しさは今さら言うまでも無いだろう。総じて言えば、観客が観たがるポイントを存分に押さえていて、観終わった後の満足度がかなり高い作品だった。
 
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 ロビーで販売していたパンフレット掲載のインタビューによると、ヤン・リーピンはこの秋のヨーロッパ公演に向けて新作を準備中で、日本公演への動きもあるという。来年なのか再来年になるのか、今のところわからないけれども、とても楽しみにしている。
 

2016 04 24 [dance around] | permalink このエントリーをはてなブックマークに追加

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