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しぎさん!
●特別展【国宝】信貴山縁起絵巻 朝護孫子寺と毘沙門天王信仰の至宝
2016年04月09日〜05月22日 奈良国立博物館
日本三大絵巻のひとつとして、ひときわ有名なわりには個人的には一度も観たことがなかった「信貴山縁起絵巻」。今回、じっくり眺められたのはなによりだった。
この展覧会の素晴らしいところは、なんと言っても全三巻の全場面を会期を通して展示している点だろう。最近の大きな美術展では、目玉となる作品は細かく期間を分けて展示替えされてしまうのが常套となっているけれども、今回のように一度行けば全てが一挙に観られるというのはやはりありがたい(つーかこれが本来のあり方でしょ)。ともあれ、たっぷり時間をかけて思う存分浸ってきました。ああ幸せ。
この作品の成立事情については謎に包まれていて、作者名も伝えられていなければ作られた正確な年代も不明(平安時代後期/十二世紀後半と推定されている)という。文献にあらわれたのは江戸時代になってからというから、長らく“知る人ぞ知る”名品だったんだろうか。
「信貴山縁起絵巻」として現在伝わっているのは三巻。教科書にも載ったりするいちばん有名なのは別名「飛倉巻」とも呼ばれる第一巻「山崎長者巻(やまざきちょうじゃのまき)」だろう。上の画像は会場入口のディスプレイだが、ここにも天井から米俵と鉢がぶら下がっている。こんなのが空を飛んでたらそりゃびっくりするわな。
お話は今の眼から見れば少々理不尽で、要するに長者(大金持ち)からお寺への献上が無いという理由でその家の米倉ごとひったくったので大騒ぎになり、長者が直談判しに行ったら「そうか、じゃあ返すわ」ということになって米俵だけがもとの家に舞い戻った、という物語。奇蹟を起こす主役は命蓮(みょうれん)という偉いお坊さんで、この話は彼の法力の凄さをあらわすものなのだ…にしても、けっこうえげつない話でもある。いかに偉い人の所業であっても、現代だったらこんなマネをすれば、そのSNSはまず炎上間違いなしだろう。センテンススプリング(もはや死語?)が裏エピソードを独占スクープしてさらに騒ぎが広がりそうでもある。ま、昔はこれで信心の大切さを伝える有難い教材になっていたのだと思うと、隔世の感ひとしおでもある。
直談判の結果、倉そのものは返さずに中身の米俵だけ戻したというのも面白いところで、ふつう容れ物よりも中身の方が価値があるだろ、とか思ってしまうのだけど、命蓮上人にとっては倉を差し押さえる方にこそ意味があったのだろうか。翌年以降のスムーズな献上(とその収納)を見越してなのかな? このへんはいろいろ想像が膨らむところではある。
第二巻「延喜加持巻(えんぎかじのまき)」は、剣を身にまとった護法童子の、颯爽たる容姿で知られる巻。
—時の帝(醍醐天皇)が病を得て、京の都から勅使が命蓮のもとを訪れる。命蓮上人はしかし都へは向かわず、信貴山に留まったまま加持祈祷を行う。勅使は宮中に戻り、命蓮を連れ帰れなかった旨を公卿に報告。しかしある晩、雲に乗った童子が宮中に飛んできて、帝の病気を癒す。快癒した帝は命蓮に報償を授けようとするものの、かれは固持し何ひとつ受けとらなかった—というストーリー。
先の巻では市井の長者あいてにけっこうな仕打ちをしておきながら、最高権力者に対しては無償奉仕である。うむ、わかりやすいなあ。
命蓮は九世紀末から十世紀前半にかけて活躍した実在の人物で、朝護孫子寺のいわば中興の祖とでもいえばいいのだろうか。絵巻が成立したとされる十二世紀後半の時点ですでに伝説上の人物で、信心深くない一般庶民にはその力の恐ろしさを見せつけ、公家や天皇家には無償サーヴィスすることで恩を売るという、なんというか“権勢を示すパフォーマンス”が作品上にたいへんわかりやすく表現されているのが面白い(ちなみに、醍醐天皇治癒のための加持祈祷というのはれっきとした史実として記録が残っているらしい)。
まあ、帝のような殿上人ならばデフォルトで信心深い=徳が深いのだという前提と、かたやそこらの長者レベルだと金儲けには熱心だがその分信仰をおろそかにしがちだという前提が、絵巻の作者と読者の双方の了解事項として暗黙のうちに出来上がっているからこそ、こういうストーリー展開が成り立つんだろうとは思う。だから第一巻と第二巻の命蓮は、そういう「お約束」の上にある存在として描かれている。
で、その命蓮上人ですらただの脇役に回ってしまうのが、第三巻「尼公巻(あまぎみのまき)」なのだ。—信濃国に住む尼僧が、実の弟を探して奈良東大寺に参拝する。大仏殿で一夜をすごすうちにお告げを授かり、翌朝信貴山に向かう。そこで無事に弟・命蓮と再会する—という物語。
前二巻で圧倒的な力を見せつけた命蓮が、ここでは単なるいち修行僧として描かれているのがたいへん興味深い(第一巻で強奪した倉がさりげなく背景に置かれているのが心憎い。それぞれのエピソードが、ちゃんと同じ世界観上の物語として扱われているのだ)。命蓮上人の超人力よりもさらに上の存在としての、仏教という巨大な信仰の力が描かれていて、つまりはこの絵巻が本当に語りたかったことがここに集約されているのだろう。
物語の細部はさて措くとしても、作品全体を通して描線がじつに軽やかで、観ていて気持ちがいいのがこの絵巻の最大の魅力だろう。第一巻、倉が飛んでゆくときの人々の慌てふためくさまや、第二巻のかしこまった勅使とそれを眺める庶民たちの屈託の無い表情、あるいは第三巻での尼僧と会話している市井の人々の存在感。それら「普通の人たち」がホントに生き生きと描かれているのが面白いんですね。対して、護法童子のいかにも童子らしい容姿や東大寺大仏殿での大仏さまの神々しいお顔などはいかにも人間を超越した存在として描かれていて、いわゆる“キャラが立ってる”とでも言えばいいのか、それぞれの描き分けの見事さに圧倒させられる。図録の解説には「鳥獣人物戯画」にも通ずる描線の闊達さ、という意味の指摘があったけれども、けしてお上品一本槍ではない、活力あふれる人々の表情を眺めているだけでもまったく飽きさせないのだ。
「何を語るか」よりも「どう語るか」。ことこの作品に限って言えば、物語のファンタジックな展開以上に、なによりもまず絵として強烈なインパクトを与えていることこそが、これを第一級の名品と万人が認める所以なんだろうと思う。
展覧会の目玉作品はもちろん「信貴山縁起絵巻」なんだけれども、朝護孫子寺が所蔵する他の名品もそれぞれ見応えがあった。少なくとも、近いうちに時間をつくって信貴山まで出かけなきゃ、と思わせるくらいには「寺そのものの魅力」も伝わってきた展覧会なのでした。奈良はやっぱり隅々までいいところだなあ。
2016 04 30 [design conscious] | permalink
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