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セイキ@トーハク

 
Kuroda
●生誕150年 黒田清輝 日本近代絵画の巨匠
 2016年03月23日〜05月15日 東京国立博物館 平成館
 
 “トーハク初セイキの集大成”と、看板のキャッチコピーにある。東京国立博物館には「黒田記念館」という施設まであるのに(6月13日まで休館中)、この地でまとまった回顧展がかつて開かれていなかったというのは、やや意外だった。とはいえ、没後90年にあたる2014年にはわたしの地元である京都文化博物館でも回顧展が開催されていたのに、残念ながら見逃していたのでおあいこだ(何が)。
 
 黒田清輝といえばフランス仕込みの「裸体画」を日本に持ち込み、洋画の近代化を推し進めた旗手である——少なくとも、先日放送されたEテレ『日曜美術館』は、「黒田の裸体画」をメインテーマに据えた構成だった。
 タイミングよくというか何というか、わたしもここしばらく<日本人の身体はどういうふうに描かれてきたか>に関心をもっていた。直接のきっかけは昨秋(2015年)永青文庫で華々しく開催された『春画展』であるけれど(そのときの感想は→こちら)、今年になってから滋賀県立近代美術館で観た『ビアズリー展』(→感想)、あるいは佐川美術館の『華麗なる美人画』展(→感想)でも、頭の片隅にそんな問題意識を持ちながら、展示作品を眺めていた。『春画展』は京都会場の細見美術館で再見。さらに、何かしら考えるヒントになるかと思って、いくつか関連書も買って読んでみた。
 
 <日本の美術家がいかに自らの身体を捉えてきたか>について言えば、わたしが読んだ中でいちばんしっくりきたのは、宮下規久朗『刺青とヌードの美術史 江戸から近代へ』(NHKブックス/2008年4月)。次いで、東京国立文化財研究所編『人の<かたち>人の<からだ> 東アジア美術の視座』(平凡社/1994年3月)。読んでいて楽しかったのは、木下直之『股間若衆 男の裸は芸術か』(新潮社/2012年3月)。『刺青とヌード〜』はまさに自分が疑問だった部分とぴったり重なっていたのでワクワクしたし、『人の<かたち>〜』はシンポジウムの記録だから多彩な論者による様々な観点が提示されていて視界が広がった。『股間若衆』は裸体といえば安直に女性像と結びつけやすいなか、近代以降の日本の彫刻史のなかからあえて<公共空間での男性裸像>を追いかけてゆく、ユニークなものだった。さらにこの流れで、「古典的名著(宮下前掲書)」とされるケネス・クラーク『ザ・ヌード 裸体芸術論—理想的形態の研究』(高階秀爾・佐々木英也訳/美術出版社/1988年(新装版)/原著は1956年刊)にも手を付けはじめたところなんだけど、さすがに今となってはいささか古いように感じなくもない。
 
 本と言えばもうひとつ、こちらはずいぶん昔に読んでいたものだけど、眞嶋亜有『「黄色人種」という運命の超克 近代日本エリート層の“肌色”をめぐる人種的ジレンマの系譜』(栗山茂久・北澤一利編著『近代日本の身体感覚』所収、青弓社/2004年8月)という論攷も印象に残っている。
 これは大隈重信や夏目漱石といった、明治初期の知識人の“人種観”を紹介したもの。肌の色や体格といった見た目や容姿について、当時の日本人の“西洋コンプレックス”がいかに強固なものだったかという内容なのだけれども、残念ながらここでは画家の視点はいっさい紹介されていない。黒田など本場で修行し、フランス人モデルもたくさん見てきたはずの画家連中が、帰国して母国の人体をどう見たのか、そこにはたして劣等感やコンプレックスがあったのかなかったのか。そのあたりが気になるのだが、実際のところはどうだったんだろうか。

 回顧展の出品作を観る限り、黒田清輝は、日本人の身体は西洋人に比べて必ずしも「劣ったもの」としては捉えていなかったのではないか、と思う。もちろん、政治・経済・文化などあらゆる面での理想/目標として、アジアよりも西洋社会の価値観を格上に置くという思想は、当時のいわば常識でもあっただろう。だから、黒田とて日本人を西欧よりも下に見ていた可能性は高いのだけど、かれが遺した絵画作品を見る限りにおいては、「どちらが上下か」という単純な視点はあまり感じられなかった。日本は日本、ヨーロッパはヨーロッパ。それぞれの身体の「違い」はちゃんと描き分けつつ、どちらにより「価値」があるのかという風な、早急な差別化はしていないように思う。
 たとえば、9年におよぶフランス留学から帰国してすぐに描かれた油彩画『舞妓』(1893年)の色鮮やかさ。着物のカラフルさにまず眼を奪われるけれども、ポーズや顔つき、表情も明るく屈託がない。またたとえば、戦災で焼失してしまった『昔語り』(1898年)のためのデッサンや習作の数々。描かれた人物たちの凛とした、それでいてなんともいえない色気のある表情に惹かれる。黒田はここで、フランスで培ったみごとな写実の腕をもって、「理想的な日本人」を画布に定着させようと苦心しているのだ。
 
 そして、その集大成となるのが、あの大作『智・感・情』(1899年/重要文化財)なのだろう。
 

Chikanjou この作品は、いまだに謎めいているとされている。一見してあきらかに何らかの寓意を示しているはずのポーズと表題が、しかしかつて前例がないものだったために、この作品は「何を表現したいのかよくわからない難解なもの」とされ、発表当初から評判が悪かったのだ。黒田が西洋絵画の図像学=定型を全く知らなかったとは思えないが、仮によくわかっていた上であえてソレを無視したのだとすると、つまり作者は本作で「これまでになかった全く新しい定型」を創り出そうとしていた、ということになる。
 
 わたしは今回はじめてこの実物に対面したんだけれど、これほど大きい作品だと思ってなかったので、まずそこに驚いた。大きい絵というのは、まずそれだけで無条件に見る人を圧倒するものだ。この作品に賭ける作者の並々ならぬ思いが伝わってくるかのようだった。そして、意外に古さを感じさせない作品だなと思い、その理由がどこから来るんだろうと、しばらく作品の前で立ち止まって考えていた。
 
 先に触れたEテレ『日曜美術館』では、黒田がこの作品を仕上げるにあたって、フォルムに細かく手を入れていたと解説していた。要するに、実在のモデルそのままではない、黒田の頭の中だけにあった「理想の人体」が、ここには描かれているのだ。図録巻頭論文で、東京国立博物館の松崎雅人氏は<あくまで理想的人体として組み立てられた想像上の人体造形であった>はずの本作が、しかし現代日本では<同じプロポーションをもつ実在の日本人女性が現実に目の前に現われ>ているとし、黒田がみた夢が顕在化した、と書いている(「黒田清輝の夢みたもの——《智・感・情》と日本絵画の行方」p.28)。この作品が現代のわれわれが見てもなお新鮮に感じられるのだとしたら、答えはその「プロポーション」そのものにある、ということになるはずだ。みっつのポーズのそれぞれが意味するところまでは理解できなくとも、たしかにこれらの裸身は神々しいまでに美しく、輝いている。そのことを直接この眼で確認できるというだけでも、本展にはわざわざ足を運ぶ価値があるのかもしれない。
 

2016 05 07 [design conscious] | permalink このエントリーをはてなブックマークに追加

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