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トリニティ2016

 
 2004年に初来日以来、毎回必ず観に行っているシカゴのアイリッシュ・ダンス・カンパニー「トリニティ」。久々の関西公演は、わたしの地元である京都がツアーの千穐楽を飾るというので心待ちにしていた。
  
●トリニティ・アイリッシュ・ダンスJapan Tour 2016
 07月01日 聖徳大学 川並香順記念講堂(学内公演)
 07月03日 新潟県民会館 大ホール
 07月06日 東京エレクトロンホール宮城
 07月08日・09日 Bunkamuraオーチャードホール
 07月10日 神奈川県民ホール
 07月12日 桐蔭学園 シンフォニーホール(学内公演)
 07月14日 熊本テルサ テルサホール
 07月15日 アルカスSASEBO 大ホール
 07月16日 アクロス福岡 シンフォニーホール
 07月18日 ロームシアター京都 メインホール
 
 ちなみにわたしが当ブログに残した過去の関連記事はこちら。
2004年公演(伊丹)
・2006年公演の際に発売されたDVDのレビュー
2006年公演(西宮)
2010年公演(東京)
2012年公演(東京)
2014年公演(東京)
 

0718_01 京都公演の会場「ロームシアター京都」は、改装工事のため長らく休館していた岡崎公園の「京都会館」(地元の半導体メーカー・ローム株式会社による、契約期間50年という大型ネーミングライツ)。旧館の雰囲気も残しつつ、現代的な劇場空間に生まれ変わった。わたしはリニューアルしてからはじめて訪れたんだけど、昔にくらべて客席は少しゆったり気味で、より見やすくなったように感じた。
 
 * * *
 
 今回の公演でわたしがもっとも注目していたのは、なんといってもコリン・ダンが振付を担当したという新作。コリン・ダンはあの『リヴァーダンス』の2代目プリンシパルであり、ニューヨーク公演のビデオ/DVDでの熱演から、ひょっとすると日本ではマイケル・フラットレーよりも彼の方がなじみがあるかもしれない。『リヴァーダンス』退団後の2000年に彼が制作した『Dancing On Dangerous Ground』は、残念ながら商業的には大成功とはいかなかったようだけど、独特のモダンなセンスは当代随一だと思う。はたして、今まで観たことのないとんでもなく現代的なアイリッシュ・ダンスを繰り広げてくれたのだ。いやあ、これを観られただけで今回はすっかり大満足であります。
 

 
 
 上にもリンクした過去記事で、わたしは一貫してトリニティのことを「アメリカならではのアイリッシュ・ダンス・カンパニー」だと言い続けてきた。ダンス・コンペティションを目的としたダンス学校が母体であることから、舞台公演も商業的なエンタテインメントよりむしろ実験的な表現の場を指向していること、かつ同時に自らのアイデンティティであるコンペティション・スタイルにも固執していること。その意味では、2016年公演も大きくはこの流れを大きく逸脱するものではない。
 ケルト紋様の刺繍が施されたドレスで披露される、コンペティション・ダンスは演目の随所に織り込まれ(ただし使用する音楽が必ずしもいわゆる普通の「コンペ・スタイル」ではないのがいかにもトリニティらしいひねくれ方だ)、そうかと思えば次の場面では一転してアイリッシュ・ダンスらしさを探すのに苦労するほどオリジナリティ豊かな(強いて言えばアフリカンな)世界観を提示する。
 特に休憩後の後半では、ボディ・パーカッションを多用したトリニティならではのダンス世界が、これまで以上に濃密に繰り広げられていた。正確に計ったわけではもちろんないけれども、アイリッシュのステップを踏んでいる時間帯の方が少なくねーか? と思うほどだった。
 前回公演のゲストで登場したサンディ・シルヴァゆかりの演目(〈チェアーズ〉)も演ったけれども、全然違うのに唖然とした。サンディが参加していた前回はもっと素朴なカナディアン・クロッギング風味が色濃く残っていたはずなのに、フットステップの醍醐味とかコーラスの楽しさ・面白さなどアンサンブルとしての魅力は全く排されていて、ただの個人競技会みたいな演目になっていた。…まあ、良くも悪くもこれぞ<トリニティ>ではあるのだろう。
 
 
 で、コリン・ダンである。彼が振付を担当した〈リッスン〉という新作は、前半、休憩前の最後に配された、重要な演目という位置付けである。
 ややもするとアイルランド本国的な意味での「アイリッシュ・ダンスらしさ」から逸脱し気味なトリニティにあって、驚くほどに純粋な「アイリッシュ・ダンス」だったのが第一印象だった。それでいて、いわゆる伝統的な/あるいはフラットレー以後のモダンなアイリッシュ・ダンスの概念をもキレイにぶちこわしてくれる、小気味いい演目でもあったのだ。彼こそ「コンテンポラリー・アイリッシュ・ダンス」の称号が似つかわしいのかもしれない、とさえ思った。
 
 ダンサーの発したタップ音やクラッピング音をその場でサンプリングし、再生。それにあわせてダンサーがさらにパフォーマンスを重ねる…って、説明がど下手で申し訳ない。大きく言えばミニマル・ミュージックの手法であり、現代音楽やコンテンポラリーダンスでは決して斬新なアイディアではないんだろうけれども、それを純アイリッシュ・ダンスの世界観で表現したのが新鮮だったのだ。
 なにより、ここで使用しているステップがモダン・アイリッシュ・ダンスのイディオムにほぼ限定されていたのが、とてもコリン・ダンらしい演出だなあと感心した次第。このストイックさこそがコリン・ダンの真骨頂なんだよなあ…って、わたくしそこまで彼のことを理解しているわけでもないんですが、まあこのさい言い切ってしまおう。この演目はやはりマーク・ハワードでは絶対に生み出せなかったものであり、かつ彼が常に追い求めているものでもあったのだ、と。
 トリニティの創設者であるマーク・ハワードは、両親こそアイルランド人だが自身はイングランドで生まれ、ごく幼いころにシカゴに移住。典型的なアイリッシュ・アメリカンと言っていい。アメリカ人としてのライフスタイルと、自らの(見果てぬ)ルーツとしてのアイルランドが、非常に複雑に絡み合った人物なのではないかと、わたしは思っている。って、そんなデリケートなことを本人に直接問いただしたわけではないんだけれども、トリニティでの活動を観ていると、なんとなくそう思うのだ。「アイリッシュネスという神話」を内面に抱え込む人生と、それに反発/あるいは利用せずにはいられない人生。「アイリッシュ・ダンス」なるものに対して、マーク・ハワードという人はおそらくはアンビヴァレントな感情をずっと抱いたままであったのではなかろうか?
 んで、ちゃんとしたアナウンスがあったわけではないので間違っていたら申し訳ないんだけれど、そのマーク・ハワード御大、今回はじめてステージに上がっていなかったっけ? 来日公演では毎回上演されている主要演目〈カーラン・イベント〉で巨大ランベグを叩いていたのってもしかして。それと、アンコールでひとりデジカメで客席を撮っていたのもおそらく…? これって京都以外の他の会場でも同じだったのかな? 
 
 * * *
 
 いつもながらの<トリニティ>+新しいアイリッシュ・ダンスの提示。トリニティは毎回新鮮な驚きをプレゼンテーションしてくれるので、本当に目が離せない。
 京都公演でひとつだけ残念だったのは、PAだった。なにより、4名いたバンドの唯一のメロディ担当だったフィドルのケイティ・グレナンがあまり聴きとれなかったのが許せない。わたしは1階前半列のほぼ中央という、音響的にはほぼ理想的な席にいたからこそ自信を持ってもの言いをつけるけど、正直、今回のPAにはかなり首をかしげざるを得ない。いま、会場で販売していた彼女のソロCD《Between Worlds》(2015)を聴きながらこのブログを書いてるんだけど、彼女の端正で正統派の音色こそは、会場でいちばん響いて欲しかった音であった。ある意味アイリッシュ・ダンス界の異端でもあるトリニティのダンス・スタイルとの対比が、彼女のフィドルによってもっと鮮やかに浮き彫りにされていたはずなので。
 
0718_02 残念と言えば、入場口前に掲示されていたこのお知らせも…。
 ともあれ、早期回復をお祈りします。
 

2016 07 18 [dance around] | permalink このエントリーをはてなブックマークに追加

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