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仏像展ふたつ
●木×仏像(きとぶつぞう)飛鳥仏から円空へ 日本の木彫仏1000年
2017年04月08日~06月04日 大阪市立美術館
●特別展 快慶 日本人を魅了した仏のかたち
2017年04月08日~06月04日 奈良国立博物館
全く同じ会期、しかも両会場は電車で1本という便利さ(もっとも、JR奈良駅からだと微妙に遠いけど)。ははあ、これは絶対に狙ってますね。ということで、両方観てきました。それでなくても大阪市立美術館は四天王寺が目と鼻の先だし、奈良国立博物館には別館として仏像の専門館があったり、東大寺や興福寺なども徒歩圏内だし(※ただし興福寺国宝館は工事のため休館中)、その気になれば一日中仏像まみれだって可能です…まあ、かなり疲れますが。
お寺に詣でてもご本尊はたいてい薄暗い本堂の奥座敷に鎮座ましまし、細かなところはよく見えません。境内のお庭や社寺建築など、他の要素に目を奪われがちでもあって、仏像それ自体の印象って実はそれほど強烈に心に残るものではないかと思います。参道の雰囲気なんかも含めた「お寺参り」というトータルな体験のうちのひとつとして、ご本尊がいらっしゃる。
一方、展覧会での仏像は、その一体が主役です。美的あるいは歴史的価値のある彫刻作品として、ただそれだけをじっくり観察することができます。まあ、信仰の対象なんだから元のお寺に恒久的に安置されてしかるべきと思わぬでもないんですが、同じ仏像でも置かれた場所が違うと全く異なる印象を受けるのもまた事実なんですよね。
わたしは、昔の日本では自分たちの「身体」をどう描いてきたのか、というところに漠然とした興味があって、たとえば美人画なんかでもそういう視点で眺めることが多いんですが、今回の仏像展もまた同じような意識で出かけました。仏像本来の意味からいえば宗教的観点が大前提になるかと思うんですけど、まあ、そこはちょっとばかり脇に置いて。
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大阪の『木×仏像』は、展示スペースをゆったり取っていて、各像のまわりをどこからでも観ることができるのが嬉しい。お顔立ちもプロポーションやポーズもそれぞれ個性的なので、あれこれ見較べるため会場内をあっちへ行ったりこっちに戻ったり、何往復もしました。素材となる木の種類、あるいは一本の木から彫り出したものか寄せ木で作られたものかなど、材質や製法を紹介するのが展覧会の主題の一つでもあるので、これまでそういう目で仏像を見なかったわたしなどははじめて知ることも多く、たいへん楽しめました。
顔の造作、指先の繊細な表現と並んでもっとも注意深く作られているのが衣服の造形である、という発見も面白かった。まるで流れる川のようにキレイに刻まれる衣文(服の襞)は、作例によっては“PLEATS PLEASE”でも着てるんじゃないかというくらい過剰に彫られているものもあって、いかに重要視されていたかがよくわかります。
その分、人体の解剖学的なリアルさへのこだわりの無さというのはいかにも日本的と言っていいのかな。たとえば古代ギリシャ彫刻に見られるような<理想的な身体>像というのはほとんど意識されていない、というかそういう発想がそもそもなかったんだろうなあ。かつて春画展を観た際にも感じましたが、日本では長らく<素の/裸の人体>に美的価値を見出してなかったし、なんなら<理想の身体>という概念さえ持ち合わせていなかったんだろうなあ…と、このときはそんなことを漫然と考えておりました。
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写実的という点では、歴代の仏像彫刻のなかで群を抜いていると言われるのが鎌倉時代の仏師である運慶・快慶の作品。どちらかというと運慶の方がより人間らしさを感じさせるとは思いますが、快慶の作品群も重厚かつ繊細で見応えがあります。ちなみに『運慶展』の方はこの秋に東京国立博物館で開催されるとのこと(2017年9月26日~11月26日)。うーん、できればこちらも同時に観たかったなあ。ていうか関西での巡回はないのかしらん。
運慶・快慶というと、マッチョな身体付きの金剛力士像あたりが真っ先に思い浮かびますが、むしろ狭義の仏像ではない、老高僧の肖像あたりに彼らが彫り出した“鎌倉リアリズム”の真骨頂がありそうです。痩せこけた頬や骨張った手先の描写は、本当にそこにいらっしゃるかのような、個性的な身体を備えています。対して如来像や菩薩像には、身体よりもそれを包む袈裟などの装飾的な表現に力を入れていて、つまりはそここそが「仏像」特有の制作様式なのでしょう。
要するに「仏像とはいかにあるべきか」を、技法的にも表現的にも一定のフォーマットとして確立し、完成させたのが鎌倉時代の仏師たちで、以降はその模倣/継承にすぎないのだ、と見ていいのでしょうね。17世紀の円空、18世紀〜19世紀初頭の木喰という偉大な“例外”はいるけれども、彼らはあくまで例外であって、けしてメインストリームではなかった。仏像としてのスタンダードは、12世紀〜13世紀頃に快慶たちが確定させた…という理解でおおよそ間違ってはいないはず。
ただ、固定されてしまったスタイルはときに退屈なものでもあります。一定の基準がしっかり守られているというのは信仰上では必要なことなんでしょうが、「彫刻作品」としてみれば、同じような姿かたちの如来や菩薩や地蔵像をいくつ並べられても、正直言ってだんだん飽きてしまうんですよね。もちろんより細部の違いを楽しめばいいんですけども。
各像のバラエティの豊かさという点では、大阪展の方が観ていて最後まで楽しかったし、快慶展でも個人的に好きなのは顔つきから身体つきまで多様な姿を見せる像——具体的には『十大弟子立像』や『重源上人座像』——でした。
で、ここに至ってようやく気付きました。つまり、如来や菩薩など「仏さま」たちがみな一様にふっくらとした造形を施されていることと、一方で修行僧などの弟子たちがどれも厳しい身体つきをしているのは、これはこれである意味<理想の身体>の具体化ではなかったのか、ということ。
現世の苦しみからの救済を願う庶民の、信仰の対象となるべき“仏さま”はできるだけ円満で(というか生身の身体性を感じさせない造形で)いなければならないだろうし、厳しい修行をしているということを如実に示すために“修行僧”は、必ず痩せたリアルな身体でなくてはならない。両者の造形の差異に意味があるとすれば、おそらくこれ以外に理由はないでしょう。
現実のゴータマ・シッダールタが、あるいは実在した著名な高僧たちがどういう体型をしていたかは一切関係なく、「釈迦如来はこういうお姿でなくてはならない」「僧侶とはこういう身体であるべき」という理想・理念が、ここにはっきりと表されているはず。そうか、少なくとも鎌倉期の仏師たちは、古代ギリシャ彫刻とはまったく違うかたちで<理想の身体像>をしっかりと持ち、それを具現化することができたということか。
絵巻や障壁画といった絵画作品よりも、彫刻はよりダイレクトに観るものにインパクトを与えます。宗教上の要請があればこそ、それはより強調された造形になるでしょう。だからたとえば『餓鬼草紙』や『地獄草紙』に描かれた餓鬼畜生どもを運慶や快慶が彫っていたら、さぞかし目を背けたくなるほどグロテスクなものになっていたはず。そういう作例ってどこかに残っていないのかな。わたし本来ホラーやグロ方面は苦手ジャンルなんですが、これならちょっと観てみたいぞ。
2017 04 23 [design conscious] | permalink Tweet
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