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北斎展と広重展
●HOKUSAI北斎—富士を超えて
英国展 2017年05月25日〜08月13日 大英博物館
日本展 2017年10月06日〜11月19日 あべのハルカス美術館
●生誕220年 広重展—雨、雪、夜 風景版画の魅力をひもとく
兵庫展 2017年10月07日〜11月26日 芦屋市立美術博物館
葛飾北斎(1760-1849)と歌川広重(1797-1858)の展覧会を観てきました。
北斎展の方は、大英博物館との共同プロジェクトで、還暦以降の晩年(といってもざっと30年だからけっこう長期ですね)の活動がテーマ。広重展の方は、三重県のかめやま美術館が所蔵するさまざまな「東海道五十三次」シリーズを中心に、風景画家としての広重を観ていくというもので、それぞれに楽しめました。
「楽しめた」…とはいえ、北斎展の人の多さにはびっくりしましたねえ。開場時間少し前に着いたら、すでに入場待ちの列がずらー。入場券を買うのに並び、さらに別の場所で入場整理券を貰いうのに並びで、実際に中に入れたのはおよそ1時間半のち(もうひとつ、見終わってからショップで図録を買うのにも30分近く並ぶ羽目に。関連グッズ不要で図録のみ購入って人専用のレジが欲しかったところ)。わたしのリサーチ不足ではあるんでしょうけど、こんなに大人気だったとは正直まったくの想定外でした(事前に知ってたらそもそも出かける気にはならなかったかも)。
何年か前に大阪市立美術館で観た北斎展(感想は→こちら)でもそれなりに人は多かったけど今回は桁違いで、北斎人気の高さをあらためて目の当たりにした思いです。大判の作品なら後ろの方からでも眺めていられるんですが、北斎漫画などの冊子作品となると根気よく並ばなければ片鱗すら見えない。あまりの人の多さに閉口して、ところどころは飛ばしてしまいました。うーん、残念。
代表作のひとつ『富嶽三十六景』(1830-33頃)を久しぶりに観られたのは嬉しかったし、他にもいくつか見覚えのある作品がありましたが、全体的には初見が多くて飽きさせません。娘の応為の作品も実物を見るのは今回が初めてなので、来た甲斐がありました。まあ、もっとじっくりゆっくり絵の前に佇んでいられたらなおよかったんですが。
多作でありかつ多彩。人物画、風景画、動植物、美人画から妖怪絵まで、このひとに描けない題材はないんじゃないかと思うくらいバラエティに富んでいて、しかもどれも面白くてつい見入ってしまいます。西洋風に陰影をつけた作品も手がけていて、新しい技法やスタイルの吸収に貪欲だったことがうかがえます。さすがは亡くなる直前までもっと長生きしたい、絵筆を執っていたいと言い続けていた人なんだなあと。
上で触れた前回の感想では、最晩年の『富士越竜図』(1849)に感銘を受けたと書いていますが、今回の展覧会では同じ年に描かれた『李白観瀑図』に目を惹かれました。
縦長の紙面いっぱいにまっすぐ落ちてくる滝を、右下に小さく描かれた人物が見上げている構図で、現実なら囂々とした音が響いているはずなのにこの絵は全くの無音のよう。静かに、ただひたすら一心に滝と向き合っています。傘を被って後ろ姿で描かれた李白は、よく見ると脇に小さな子どもを抱えている。子どもの方は滝には無関心なのか、もう飽きたのか、こちらを向いていまにも動き出しそうなのがかわいい(実は、子どもは滝を眺める李白を一所懸命立ち支えている、という解釈が正解らしいんですが)。
本作は会場最終付近の展示で、さすがに疲れたのか多くの人がわりと早足で出口に向かっていたので、おかげで比較的じっくり鑑賞できたのがありがたかったですね。ていうか北斎の生涯最後の数点こそこの展覧会のハイライトなのに、みんなもったいないぞ…!
* * *
西洋の年代を持ち出して云々するのはきわめて無意味なんでしょうけど、北斎が18世紀/19世紀にまたがって活躍した人とすれば、広重は明らかに19世紀の人。わずか40歳に満たない年齢の差ではあるけれども、両者の間にはとても大きな“ジェネレーション・ギャップ”があると感じました。なんというか、広重って絵作りがとてもポップでモダンなんですよねえ。この軽みこそが、もしかすると北斎が欲してやまなかったものなのかもしれません。
歌川広重の作品群をまとめてじっくり観る機会は、そういえばこれまであまりなかったかな。有名な『東海道五十三次』(保栄堂版/1833頃)にしても、シリーズ全作の実物に相対するのはおそらく初めてだと思います。版画作品だから刷りのバージョンによって出来不出来の具合にも差があるんでしょうが、今回の展覧会での印象は「青がひたすら綺麗…」というため息まじりのものでした。
そういう色遣いもさりながら、そもそも構図がとても面白いんですね。まるで魚眼レンズを使ったかのようにぐぐっと歪曲した街道や遠近感、主題を無視するかのように画面のど真ん中に据えられた大木。あるいは画面上の効果的な構図のためだけに配置された木々や帆船、人々の群れ。いったいどういう発想をすればこんな絵になるの!? っていう意外性のオンパレードで、あまりのモダンさにびっくりしました。背景の山の描き方なんかが「これほとんどキュビズムやん」って思った『小田原 酒匂川』とか、構成のリズム感が心地いい『宮 熱田神事』などは、現代の目から見ればたいへんわかりやすい「ポップさ」ではあるんですが、おそらく当時は相当にアヴァンギャルドではなかったかと。ゴッホをはじめとしたフランスの印象派の面々がこぞって模写したという逸話なども思い出しながら、会場をゆっくり巡っていきました。
現実の風景をそのままリアルに再現するのではなく、作家の美意識に基づいて再構成・再構築された『五十三次』。それが大ヒットし、が故に同工異曲の作品群を生涯にわたって作り続けなければならなかった歌川広重。若くして(当時三十代後半)後世に残る代表作を産み出した才能と幸運を羨ましく思うか、いつまでも同じ題材を手を変え品を変えて再生産しなければならなくなった運命を気の毒に思うか。その辺の受け止め方はひとそれぞれに違うでしょうが、おそらくは北斎の『三十六景』に触発されて大きく開眼した、後続作家としての「生きる道」とでもいうべきものが垣間見えた展覧会でもありました。
その広重にしたって、亡くなったのは1858年、つまり明治維新の約10年前で、彼がもう少し長生きして文明開化の世を目の当たりにしていれば、どんな風俗画を版木に残しただろう、と想像するとわくわくします(…ってあたりを見事に描いたのが一ノ関圭の名作『茶箱広重』(1981)、今読み返してもその切れ味のいい凄みに圧倒させられます)。
ともあれ、今回、北斎〜広重という「世代交代」を立て続けに鑑賞する機会を得られたのは、またとないいい体験なのでした。江戸後期の日本美術界って、やっぱ面白いなあ。
2017 11 12 [design conscious] | permalink Tweet
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