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DUNAS
●María Pagés & Sidi Larbi Cherkaoui /DUNAS
東京公演 2018年03月29日〜31日 Bunkamuraオーチャードホール
愛知公演 2018年04月05日 青少年文化センター アートピアホール
大阪公演 2018年04月06日 豊中市文化芸術センター 大ホール
2015年4月におこなわれた自身の舞踏団での『Yo, Carmen 私が、カルメン』(→感想はこちら)以来3年ぶりとなる、マリア・パヘスの来日公演。今回は舞踏団としての公演ではないが、演目があの『ドゥナス』とあっては、何が何でも駆けつけねばなるまい。
初演は2009年。わたしがこの演目のことを知ったのはいつだったか、今となっては定かではないが、シディ・ラルビ・シェルカウイと二人だけの舞台というのにたいへん興味を持ったし、なんで日本でやらないのか不思議だった。シディは2010年の首藤康之との共演作『アポクリフ』以来、『TeZuka』(2011年)や『PLUTO』(2015年)などでオーチャードホールにはなじみがあるし、マリア・パヘスも長いあいだ同ホールを日本のホームグラウンドのようにしてきた。そんな縁もゆかりもある二人の共作ならば、Bunkamura側が飛びつかないはずはないだろうに…とずっと思っていたのだ。ともあれ、こうして無事に日本で観る夢が叶ったのだから、今はただひたすら感謝したい。
マリア・パヘスは、そもそも「デュオ」で演じる場面が少ない。わたしが知る範囲でいうと、アイリッシュ・ダンス・ショウの金字塔『Riverdance』での、初代プリンシパルのマイケル・フラットレーとの火花散る一騎打ちを観たのが初体験で(1995年ダブリン・ポイントシアター公演版ビデオ)、これは非常にインパクトがあった。その次は2001年、マリア・パヘス舞踏団としては初来日公演となる『La Tirana ラ・ティラーナ〜プラド美術館の亡霊』で、ゴヤを演じたマノロ・マリンとの息の合った小粋なデュオ・ナンバーが印象的だった。しかしそれ以降、彼女が誰かと「二人だけで」踊ったシーンというのはついぞ記憶にない。マイケル降板後のRiverdanceは“マリア vs 男性ダンサー数人”というフォーメーション・ダンスに変わったし、舞踏団公演ではソロと群舞を交互に、というパターンが半ば定着していた(さらに、近作ではミュージシャンたちと絡むシークエンスも増えている)。デュオというフォーマットを嫌っているのか…とさえ感じていたのだが、どうやら<対等に組める相手>がなかなか見つからないから、という理由なのかもしれない(コリン・ダン以後のRiverdanceでは、フィドラーのアイリーン・アイヴァースとは楽しそうに掛け合いを演じていたから、やはりダンサー相手ではなくミュージシャンの方が性にあうのかも)。
そんなマリア・パヘスが、ここまでがっつりと—おそらくは長いキャリアの上でも初なのではないか—組んだ相手が気鋭のコンテンポラリー・ダンサー/演出家というのがたいへん面白いし、いかにもマリア・パヘスらしいとも思う。身体の動かし方のメソッドも異なるだろうから一般的には「異種格闘技」なみのタッグなのかもしれないけれども、現代社会に対する問題意識の高さや、あるいは自分のダンス言語ひとつで世界の全てと対峙できる卓越した表現技術、異ジャンルに対する関心の広さ・理解度の深さなど、なるほどこの二人には重なり合う部分が多いと思う。果たして完成したステージは、フラメンコとも現代舞踊とも違う、独特の<二人だけの世界>を強烈にかたち作っていた。
ふたりのダンスには、やはり違いの方が多い。どちらも同じように「しなやか」で「なめらかによく動く」が、しかし強靱ななめし革のようなマリア・パヘスと、肌理の細かな織物のようなシディ・ラルビ・シェルカウイの対比は観ていて飽きないのだ。同じ振り付けを並んで踊っていても、むしろその<差異じたい>が、何か強いメッセージを発しているかのようでもある。
時に舞台装置として、時に小道具として本作のビジュアル面での大きな役割を担っているのが「布」。もはや第三の共演者、と呼びたいくらいの存在感で、伸縮性のある巨大な布と計算され尽くしたライティング設計が『DUNAS』—「砂丘」の意—の世界観を見事にあらわしていた。
巨大な布にすっぽり覆われたふたりが出会うところからステージが始まるのだが、それは羊水に眠る胎児のようであり、あるいはシーツの海を泳ぐ男女の睦言のようでもあり、またあるいは囚われて身動きがとれずもがき苦しんでいるかのようでもあり。
さまざまなイメージが次々と立ち現れては消え、連想ゲームのようにまた別のイメージへとメタモルフォーゼする。できのいいアニメーションを観ているかのような、と書くと語弊があるだろうか(特に砂絵のシークエンス〈Dunas en fuga 砂丘のフーガ〉でそう感じた。ヒトの生・老・病・死から神話、宗教、伝説、911のニューヨークテロまで、追いかけるのが困難なほどのイメージがここには溢れかえっていた)。しかしながら、洪水のようなイメージの奔流のなか、すっくと立つ二人の立ち姿は、ただ立っているだけでも美しく、ほれぼれする。曲名で言うと〈Tangos de Merzouga メルズーガのタンゴ〉あたりだったか、ステージ後方からの強い照明がダンサーを捉え、前方に垂らした布をスクリーンとしてシルエットが幾重にも浮かぶ。ふたりきりのダンサーが何人にも増幅するあの場面は、観ていてほとんど泣きそうになった。
「マリア・パヘスのシルエット」といえばRiverdanceの登場シーンもそうだし、カルロス・サウラ監督の映画『フラメンコ』(1995年)でも実に印象的な使われ方がされていて彼女の特質を物語るひとつでもあるが、本作には他にもぶっぱやいカスタネット・ソロや布をマントンに見立てた大立ち回りなど、ファンにはおなじみの「待ってましたッ」と声を掛けたくなりそうなソロ・パフォーマンスもたっぷり用意されているので、それだけでも満足度は高い。
そして、同じように見応えがあったのがシディ・ラルビ・シェルカウイの身体だった。多くのシーンで正面よりやや上を向くことが多いマリアに比べると、彼の目線はどちらかというとうつむき加減が多く、その対比もおそらく計算の上なんだろう。さきほど<繊細な織物>のようだと評したが、内省的な彼の特質が多くのシーンで堪能できたのが嬉しい。わたしはマリア・パヘスの大ファンなのでひたすら彼女を観るために来たんだけれども、気がつけばシディ・ラルビ・シェルカウイの動きを目で追っている時間の方が長かったかもしれない。
今回は東京公演/大阪公演とも比較的前の方の席を取ったんだけど、再演の機会がもしあるならば、次はうんと後方席からでも観てみたいと思った。また観たいなあ。
2018 04 07 [dance around] | permalink
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